先週行った木曽駒ヶ岳から1週間、今度は近場の低い山に登りたくなり、いろいろ調べるうち「赤ぼっこ」の名前にひかれて出かけていく。
赤ぼっこは東京・多摩地区の青梅市にあるが、すぐ南は日の出町で、縦走路から少し南に下ったところには、かつての中曽根首相の日の出山荘があり、さらには多摩地区370万人のゴミの最終処分場もある。
高い山こそ登る醍醐味がある、なんてことはなく、「山高きが故に貴からず」の言葉の通り、低い山の魅力を感じた山登りだった。
なぜなら、今回歩いた山々にはとても興味ぶかい歴史が秘められているからだ。
3000m級の山だったら、昔は登るなんてことは考えず、せいぜい修験道の行者が命懸けで登ったことはあっても、一般の人はただふもとからながめるだけだったろう。
しかし、近くの低い山なら生活圏の中にあり、そこにはいろんなドラマがあったに違いない。
歩き出すと、ちょうど沿道はコスモスが花盛り。
キバナコスモスにツマグロヒョウモンが蜜を吸いにやってきていた。
豹柄模様があるのでヒョウモン、メスは前翅の先が黒紫色(間に白い帯)なのでツマグロ。
オスよりメスのほうがハデな模様のチョウだが、これはオス。
ハチさんも無心に蜜を吸っていた。
遠くに連なっているのが、これから登る山のようだ。
1本の高い木がそそり立っているが、あれが赤ぼっこに違いない。
めざす山はわかったが、登山口はどこか?
住宅地をぬって歩き、登山口を探す。
いつも思うのだが、登山ルートに入ると標識も充実してきて、いやっというほど「〇〇まであと何㎞」の表示があるのだが、駅から登山口までは、標識がまるでないので困る。
行政の側は、自分たちが責任を持つのは決められた登山道内だけで、そこまで来るのは各自の“自己責任”と思ってるのだろうか。
まさにお役所仕事ここにあり、だ。
青梅市民は何もなくともわかるのかもしれないが、遠くから来た人間には駅からどうやって行ったらいいか、まるでわからない。
そうした登山者の気持ちを察してか、おそらくボランティアの人によるものだろう、登り口に手づくりの標識を立ててくれていた。
先週の木曽駒ヶ岳のガレ場の急登とは大違いで、なだらかな山道をゆっくり登っていく。
ひらひらとチョウが飛んでいて、とまったところ。
木の葉そっくりのコノハチョウだろうか。
飛んでいたからわかったが、とまっているところを見てもまるでわからなかっただろう。
スゴイ擬態のワザ。
まず最初のピーク、要害山(ようがいさん)。標高414m。
本日めざす赤ぼっこは標高409mなので、ここが一番高い。
それにしても要害山とはすごい名前。
辞書によれば、要害とは味方にとっては要で敵には害となるの意で、地勢がけわしく、守りやすく攻めにくい所、堅固な城壁、要塞、とある。
はるか中世にさかのぼると、青梅地域を支配した豪族の三田氏(みたし)というのがいて、その三田氏が本拠としたのが多摩川沿いの勝沼城だったという。三田氏はほかにも辛垣城などの城を築いていて、このあたりには西城、矢倉台、物見山などの地名が残っている。
中世のころはここに山城があり、武士たちが戦に備えていたのだろうか。
少し下ったところから見ると要害山はお碗のような形をしていて、築いたとしても砦程度だったろうが、山の上からの防備としては十分に機能していたのではないか。
その後は小さなピークを登ったり下ったり。
尾根歩きというより、このあたりは小さな山が連なっているみたいで、登ったり下ったりがけっこうあった。
すると、登山道をちょっとはずれたあたりに、まるで長崎の出島みたいにしてあったのが、「赤ぼっこ」。
ふもとから見た1本の高い木がひときわ目立つ。
さえぎるものがなくて、ここからの眺めがすばらしい。
遠くに見えるのはプロ野球・西武ライオンズの本拠地、西武ドーム。
もっと晴れていれば東京都庁や東京スカイツリーも見えるらしい。
それにしても「赤ぼっこ」とは不思議な名前(それにひかれて登ってきたのだが)。山に行くとよく「ボッチ」というのは目にするが、「ぼっこ」は初めて。
長野に高ボッチ山があり、由来はダイダラボッチが休んだところとの伝承とか、山頂がナベの蓋のポッチに似ているからとの説があるそうだが、赤ぼっこの由来は何か?
「ぼっこ」は方言ではないかとの説があり、北海道では「棒きれ」、福島では「下駄にくっつく雪」、山梨、長野、静岡あたりにいくと「ボロ」「古い」「壊れる」などの意味があり、ほかにも「惚け」が転じて「ぼっこ」になったとの説もあるが、あんまりいい意味じゃなさそう。
疑問を持つ人が多いからだろう、赤ぼっこの由来を説明する看板が立っていて、今から100年近く前の関東大震災(1923年)によりこの付近の山の表土が崩れ落ち、赤土が露出した姿になったことからこの名がつけられたという。その後はサクラやツツジが植えられたりして植生は回復。多少赤土は残っているものの、絶好の展望地となってる。
なるほど、「赤」の意味はわかったが、「ぼっこ」は?
やはり「ボロ」とか「壊れた」の意味なんだろうか。
トンボにとっても見晴らしがいいのが気に入ったのか、アカトンボがとまっていた。
バッタもやってきていた。
トノサマバッタぐらいの大きさのバッタだった。
さらに歩いていく。
アザミの蜜を吸うハチ。
馬引沢峠に到着。
「馬引沢」という地名は多摩市や世田谷区にもあり、多摩市の馬引沢は馬を降り引いて歩かねばならないほど険しい道であったことが由来といわれ、世田谷の馬引沢は、源頼朝が藤原泰衡を討伐するために鎌倉を出発して奥州平泉へ向かってこの土地を通った際、突然頼朝の乗った馬が暴れだして沢の深みに落ちてしまい、頼朝はこの事故を戒めとして「この沢は馬を引いて渡るべし」と申し渡したので馬引沢の名がついた、といい伝えられているという。
いずれにしても馬に関係する故事がありそうだが、そういえば近くには馬頭観音の像があったが、馬頭観音は頭の上に馬の頭をいただいていることから馬の守護神として昔から広く信仰されていたといわれている。
それで気になって調べたら、馬引沢を通る道は、鎌倉時代には東国の武士たちが馬に乗って往還する鎌倉街道の山ノ道だったといわれているそうだ。
馬引沢峠から南は、武蔵増戸、高尾、町田へとつながっているという。
鎌倉街道は、鎌倉殿が敵に攻められたりして急を要するとき、「いざ鎌倉」と東国の武士たちが自分らの領地から馬に乗って馳せ参じるために踏み固めた道筋のこと。
まるでローマへの道みたいに幾本もの道が鎌倉に向かっているが、そのうち鎌倉街道山ノ道は、秩父から青梅、五日市、高尾など、山の周辺を縫うように走っていたといわれる。
たしかに、要害山から赤ぼっこまでの道はかなり細い山道だったが、馬引沢あたりにくると道幅が広くなっていて、馬で駆け抜けるには格好の道だったかもしれない。
あるいは、昔はもっと山道が整備されていて、要害山からのルートも鎌倉街道の裏の道となっていたかもしれない。
このあたりを支配していた地方豪族の三田氏は、鎌倉時代から戦国時代まで活躍していたという。「武蔵名勝図絵」という文政6年(1823)の書物には「三田氏は平将門の後裔にして勝沼殿と称しけり、・・・代々鎌倉将軍家に属す」とあり、このあたりに鎌倉街道が走っていたのはうなずける話だ。
二ツ塚峠を経て、下山。
途中にも枯れ葉に擬態したチョウ。
オレンジ色した、やけに脚が細くて長い虫。
ザトウムシだろうか。
2匹が長い脚でフワフワと歩いていた。
JR青梅駅近くまでやってくると、さすが青梅は「映画看板のある町」といわれているとおり、映画看板を次々に目にする。
バス停には映画「バス停留所」。
映画看板のパロディもあり、ネコ好きが多いのか、傑作は「シェーン」をもじった「ニャーン」。
「男はつらいよ」は「猫はつらいよ フーテンの寅(ドラ)」。
「羊たちの沈黙」をもじって「猫たちの沈黙」。主演はニャディー・フォスター。
「ゴジラ」じゃなくて「ニャジラ」の隣にある看板は、おお何と、ヴィットリオ・デ・シーカ監督の名作「自転車泥棒」ではないか!
「風と共に・・・」ではなく、「猫と共に去りぬ」
“昭和レトロ”の看板ロードを歩いていて見つけたのが「青梅麦酒」という店。
足拭きマットがネコだった。それともブタ?
町おこしのため空き店舗をリノベーションし、地元の食材をふんだんに活用したクラフトビールバー&レストランだとかで、何より気にいったのが「麦酒」の店名。
山歩きの帰りに無性に飲みたくなるのが、冷えたビール、それもジョッキで。なので、イの一番に注文したのが地元・奥多摩のクラフトビール。
ゴクリと飲むと、その独特の風味と苦みに、以前飲んだ記憶がよみがえった。
JR奥多摩駅近くのビール醸造所「VERTERE(バテレ)」のビールではないか!
ここのビールはおいしくて、出来立てを飲みたくてつくってるところへ行こうと、遊び仲間(飲み仲間でもある)と奥多摩駅まで飲みに出かけたことがあるが、青梅でも飲めるのかとうれしくなる。
ビールの友は、青梅豚100%というハンバーグと、ピザ。
2人で行ったのでシェアして食べる。
青梅駅構内でも映画看板を満喫。
山歩きと、懐かし映画看板を楽しみ、おいしいものを食べて飲んだ昼下がり、青梅始発なのでラクラク座って、車中ぐっすり眠って帰途につく。