善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

中野坂上・石臼塚の由来

先週の土曜日は「杉並お散歩の会」(長谷川雅也氏主宰)のお散歩会に参加。

JR東中野駅集合で、桃園川合流点→ヒット曲「神田川」の碑→中野氷川神社明王宝仙寺→やままさ醤油レンガ塀→明徳稲荷神社→紅葉山公園→かいばや街道(堀之内新道)→宿鳳山高円寺というコース。主に中野区内を歩き、最後に杉並区の高円寺に至るコースだったが、意外な発見があった。

 

中野坂上にある宝仙寺に行ったときのこと。真言宗の寺だが、境内に石臼が山と積まれた「石臼塚」があった。f:id:macchi105:20191202172051j:plain

石臼塚の由来を記した看板もあって、次のように書かれてあった。f:id:macchi105:20191202172244j:plain

中野区と新宿区との間を流れる神田川には江戸時代から水車が設けられて、そば粉を挽くことに使われていた。 そばの一大消費地となった江戸・東京に向けて玄そばが全国から中野に集められ製粉の一大拠点となり、中野から東京中のそば店に供給されたため、中野そばとまで言われるようになった。 その後、機械化により使われなくなった石臼は道端に放置され見向かれなくなっていった。 それを見て当山、宝仙寺第50世住職富田敦純大僧正(宝仙学園創立者)が人の食のために貢献した石臼を大切に供養すべきであるとして、境内に「石臼塚」を立て供養した。
平成十八年十二月吉日

献額 中野区商店街連合会・中野法人会

 

何と、中野はかつては東京中のそばの供給元だったというのだ。

しかも神田川には水車が設けられて、そこで製粉が行われていたという。

東京中のそば粉の製粉が行われていたというのだから、水車も1つや2つではなかっただろう。

神田川は、石けんをカタカタいわせて銭湯に通った若い男女が住む三畳一間の下宿があっただけでなく、そば粉を挽くコットンコットンという音の世界が広がる場所でもあったのだ。

 

また、そばにつきものの醤油屋や、味噌屋もこのあたりにあった。

それを示すのが、宝仙寺の近くの公園にある「やままさ醤油醸造所のレンガ塀」。f:id:macchi105:20191202172320j:plain

このレンガ塀は当時あった山政醤油醸造所の塀に使われていたもので、明治32年(1899年)につくられたと推定されているという。

山政醤油醸造所は明治5年(1872年)に創業。当時、醤油や味噌の醸造はそば粉製造とともに中野の代表的な地場産業で、青梅街道沿いは中野の商工業の中心地として賑わっていた。山政醤油の生産高は中野の産出量の8割を占めるほどだったとか。

その敷地はかなり広大だったらしいが、もちろんいまはない。この塀も、元の場所から170mほど離れた場所に移設されたものだ。

 

セメントがなかった時代の初期の洋風レンガの構造物で、石灰や海藻、砂などで固める日本古来の漆喰の技術に、レンガを交互に重ねていくフランス積という工法を組み合わせたものとなっているという。

 

中野駅近くを歩いていて見つけた「天安門」という中華料理の店の看板。

老朽化して傾いているのかと思ったら、目立つようにわざと傾けて設置してあるようだ。f:id:macchi105:20191202172344j:plain

街を歩くといろんな発見がある。