アルゼンチンの赤ワイン「カイケン・エステート・マルベック(KAIKEN ESTATE MALBEC)2022」
(写真はこのあと牛のサーロインステーキ)
チリのモンテス社が隣国アルゼンチンで手がけるワイン。
マルベックはフランス南西部カオール地区原産の赤ワイン用黒ブドウ品種。20世紀半ばごろまではフランスでも人気の品種だったという。
しかし、病害などのためフランスでの栽培量は激減。現在はアルゼンチンで最も多く栽培されていて、世界のマルベックの栽培面積の75%以上をアルゼンチンが占めるといわれるほどで、アルゼンチンを代表するブドウ品種となっている。
ワインの友で観たのは、民放のCSで放送していた韓国映画「オマージュ」。
2022年の作品。
原題も韓国語の「オマージュ」
監督シン・スウォン、出演イ・ジョンウン、クォン・ヘヒョ、タン・ジュンサンほか。
映画の修復プロジェクトに携わることになった女性映画監督が、フィルムの修復作業を通して自分の人生と向き合い、新たな一歩を踏み出す姿を描いた韓国の人間ドラマ。
相次ぐ興行失敗で落ち込んでいる中年の映画監督ジワン(イ・ジョンウン)は、実生活でも息子からは「母さんの映画はつまらない」といわれ、家事をやらないというので夫ともうまくいってない。
ある日、国立の映画機関から1960年代に活動した女性映画監督ホン・ジェウォンの「女判事」という作品のフィルムの復元作業を依頼される。作業を進めているとフィルムの一部が失われていることがわかり、ジワンはホン監督の家族や関係者を訪ね、失われたフィルムの行方を追っていく。
その過程で彼女は、今よりもずっと女性が活躍することが困難だった時代のことを知り、フィルムの修復が進むにつれて自分自身の人生をも見つめ直していくことになる・・・。
日本もそうだが、映画界は男性社会で、スクリプターや衣裳、編集、あるいは脚本などを女性が担当することはあっても、映画製作全体を取り仕切る監督を女性が務めることはほとんどなく(日本の女性監督第1号とされる坂根田鶴子とか、女優としても有名だが監督もした田中絹代などごく少数の例はある)、日本で女性監督が活躍するようになったのは比較的最近のことではないだろうか。
韓国では、やはり数は少ないけれど戦後の早い時期から女性監督が登場していて、本作は今から半世紀以上も前、1960年代に活躍した女性映画監督のホン・ウノン(1922~1999年)をモデルにしている。
実は韓国映画史上、ホン・ウノン監督は2人目の女性監督であり、韓国映画界に初めて登場した女性監督はパク・ナモク(1923~2017年)という人だった。
パク・ナモクは日本の植民地時代の朝鮮に生まれ、梨花(イファ) 女子専門学校・家庭科に入学して文学と美術、映画に心酔。学校を中退した後、新聞記者をしていたときにふとしたきっかけで朝鮮の撮影所で仕事をすることになり、やがて脚本を書くようになる。1955年に「未亡人」という作品で韓国初の女性映画監督として名前を残す。
同作品は、朝鮮戦争で夫を亡くした未亡人が若い男との同棲のために幼い娘を捨てるという、当時の社会通念からは考えられないような大胆な内容の映画だったという。
しかし、女性であるがゆえの彼女の仕事はとても大変で、生まれたばかりの娘の面倒を見てくれる人がおらず、夫も見て見ぬふりをする中で、赤ちゃんをおんぶして撮影現場に立ったりしたという。
監督が女性だからという理由で編集のための部屋への入室を断られたり、同じ理由から上映する劇場を見つけることもままならず、「未亡人」は興行的には失敗。女性に対する偏見のひどさに嫌気が差したのか、彼女はこの1本だけで監督を辞めて映画界を去り、出版社に転職した。
韓国映画史上2人目の女性監督となり、本作のモデルにもなっているホン・ウノンの監督業も大変だったらしい。
やはり日本の植民地時代の朝鮮に生まれたホン・ウノンは、京城公立京畿(キョンギ)高等女学校の在学時に映画館で多くの映画を見て育つ。出版社勤務やラジオの合唱団員、声優をへて太平洋戦争が終わった翌年の1946年、映画会社に入社してスクリプター、シナリオライター、助監督をつとめ、1962年、監督デビューの作品となったのが、本作でも登場している「女判事」だった。
この作品は、韓国初の女性判事の死という実際に起こった事件を題材に、男性中心の家父長制社会である韓国社会にあって、判事になった女性が夫や姑との葛藤を乗り越えていく様子を女性監督ならではの視点で描いている。
何だか現在NHKで放送中の朝の連続ドラマ「虎と翼」を連想してしまうような映画だが、むろん、共通しているのは韓国初の女性判事というだけで、内容はまるで違う。
その後、ホン・ウノンは「女やもめ」(64年、子どもたちのために苦労し、忍耐を続けた母親を描く)、「誤解が残したもの」(65年、儒教的雰囲気の中で犠牲となった女性が主人公)と立て続けに監督作品を発表するものの、その後はなかなか監督する機会を得られず、結局その3本だけで監督を辞め、シナリオ執筆に専念するようになる。
そんなホン・ウノンの人生を知り、自分の人生を見つめなおす、というのが本作のテーマだが、見ていて気になったのが、失われたフィルムの行方。
ようやく見つかって、修復されて再上映されるが、失われた部分の内容は意外なものだった。
帽子をかぶった女判事らしき女性が海岸を歩いていて、タバコをプカリと吸う、ただそれだけのシーンだった。
「女判事」が上映された1962年とはどんな年かというと、1960年に学生を中心とした四月革命によって李承晩の独裁政権は倒れるが、翌61年に軍人の朴正煕による軍事クーデターが起き、朴政権による軍事独裁政治が始まる。
民主化運動を弾圧するため、軍事政権が着手したのが言論・出版の自由の抑圧だった。
映画の検閲については、映画会社の自主的組織である映倫を解散して政府が権限を掌握する。1962年には映画会社への政府の関与を強める「映画法」を制定し、同年に施行された改正憲法において「公衆道徳と社会倫理のために映画や演芸に対する検閲をすることができる」と明記して検閲を合憲化した。
そうした政府による表現の自由への抑圧の中で、真っ先にその標的となったのが女性だった。
本作における失われたフィルムがそのことをはっきりと示している。
当時は厳しい検閲によって乱暴にフィルムを切られることがたびたびあったといわれ、「女判事」でも、検閲にひっかかったのが女性がタバコを吸うシーン。「女がたばこを吸ってるところを映すなんて、不道徳極まる」と、当局によりカットされたのだった。
国民のため、市民のためといいながら、市民の権利と自由を平気で蹂躙しようとする独裁政治の“本性”が、この事例からも浮かび上がってくる。
ついでにその前に観たのも韓国映画で、民放のCSで放送していた「非常宣言」。
2022年の作品。
原題も韓国語の「非常宣言」
監督・脚本・製作ハン・ジェリム、出演ソン・ガンホ、イ・ビョンホン、キム・ナムギル、チョン・ドヨンほか。
娘とハワイへ向かうジェヒョク(イ・ビョンホン)は、空港で怪しげな若い男(イム・シワン)と会い、その男が同じ便に搭乗したことを知り不安がよぎる。
KI501便はハワイに向け飛び立つが、離陸後間もなくして1人の乗客男性が不審な死をとげ、直後に次々と乗客が原因不明で死亡し、機内は恐怖とパニックの渦に包まれていく。
一方、地上では、妻とのハワイ旅行をキャンセルしたベテラン刑事のク・イノ(ソン・ガンホ)が警察署にいた。飛行機へのバイオテロの犯行予告動画がアップされ、捜査を開始するが、その飛行機は妻が搭乗した便だったことを知る。
見えないウイルスによる恐怖と、墜落の恐怖。高度28,000フィート上空の愛する人を救う方法はあるのか・・・?
ソン・ガンホ主演というので期待して見たが、いささか、というよりかなりガッカリした内容の映画だった。
どんな奇想天外、バカバカしくてハチャメチャな映画でも、最低限のリアルさの上に成り立っている。いや、そのリアルさがあるからこそ、人間が空を飛んだり、怪獣が大都市をメチャメチャにしても、映画だからこその臨場感あふれる描き方によって観る者をドラマの世界に引き込んでいくのだろう。
はっきりいって本作にはその最低限のリアルさがない。
飛行機飛び立ってすぐ、不審な死亡者が出て、何かに感染した疑いまで出る。明らかに緊急事態だ。「福岡が近い」みたいなことをいってたから、おそらく日本上空でのことだろう。だとするなら、異変を察知した機長は、すぐさま最寄りの空港に緊急着陸するか、出発した飛行場に引き返すかするはず。しかし、映画ではそんなことはなく、飛行機は漫然とハワイに向かって飛行を続けていく。
本作の監督としては、何とか飛行機が映画の最後まで飛んでもらわないと困るのだろう。その下心が“見え見え”の展開となり、最初から映画への興味は失せてしまった。
ついにハワイに近くなって着陸しようとするが、アメリカ政府は着陸を拒否し、引き返すことになる。日本に近づいてきて、日本の空港に緊急着陸しようとすると、日本政府も拒否して、それどころか自衛隊の戦闘機を発進させ、威嚇射撃して撃退しようとしてくる。これもあり得ない話だ。
いくら領空内に進入したから撃退するといっても、民間の旅客機を武力で威嚇するなんていくら映画でも許されていいものではない。しかもこの飛行機は通常の飛行ルートを飛んで日本の領空内に入っているのだから、領空侵犯ではない。
1983年に、ニュヨークからソウルに向かっていた大韓航空のボーイング747が、旧ソ連の領空を侵犯したため、戦闘機により撃墜された「大韓航空機撃墜事件」があった。乗っていた乗客・乗員269人が全員死亡した。
そもそも、かりに領空を侵犯したからといって民間機を撃墜するなんてあってはならないことであり、この事件後、領空を侵犯したとしても、民間航空機を攻撃してはならないと国際法で明示され禁止されている。
それに、本作で自衛隊機が威嚇射撃したのは成田空港の近くだろうから、東京や関東地方の上空近くであり、下には人が住んでいる。そんなところで攻撃すること自体、これまたあり得ない話だ。
もうひとつ首をひねるのは本作のタイトルと映画の内容との関係だ。
タイトルは原題も邦題も「非常宣言」。
映画が始まってすぐ、その意味が字幕で出る。
「(非常宣言とは)飛行機が危機に直面し、通常の飛行が困難になったとき、パイロットが不時着を要請すること。 “これ”が布告された航空機には優先権が与えられ、他のどの航空機より先に着陸でき、いかなる命令を排除できるため、航空運行における戒厳令の布告に値する」。
これだけ最初に重々しい言葉で断ってるのだから、「非常宣言」がこの映画のキーワードなんだなと思って見ていくと、飛行機が日本上空にさしかかり、日本の管制塔に緊急着陸を要請するが断られ、機長は「非常宣言を布告します」と宣言する。
いよいよ飛行機はタイトルにあるとおり、最後の手段としていかなるほかの命令をも排除して強行着陸するのだな、と見ていると、自衛隊機からは威嚇射撃され、結局、強行着陸しないままソウルへと飛んで行ってしまう。
その後、タイトルにある「非常宣言」のシーンは一切なし。
あれれ「非常宣言」はどうなっちゃったの?と、狐につままれた感じになっているうちに、映画は終わってしまった。