善福寺公園めぐり

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菊之助の「三役完演」を“完観” 義経千本桜

東京・半蔵門にある劇場の建て替えを前に、歌舞伎「義経千本桜」を3プログラムに分けて通し上演している10月の「初代国立劇場さよなら公演」。3日のBプロ、10日のAプロに続き、16日は四段目にあたるCプロの「道行初音旅」「河連法眼(かわつらほうげん)館の場」。

 

二段目の「鳥居前」に登場した狐忠信が主役の舞台。

国立劇場のHPより)

 

九州へ落ちのびようと大物浦から船出した義経一行だが、暴風雨に見舞われ、仕方なく行き先を変更して今は大和国奈良県)吉野に隠れ住んでいる。伏見稲荷義経と別れた静御前は、満開の桜の中、吉野へと向かっている。山中で義経を思い、義経から預かった「初音の鼓」を静が打つと、はぐれていた供の忠信が姿を現す(道行初音旅)。

吉野に住む河連法眼の館にかくまわれている義経の元に、佐藤忠信が駆けつける。義経は静の安否を尋ねるが、身に覚えのない忠信。そこへ静が到着し、忠信と一緒に来たといって、義経との再会を喜ぶ。不審に思った義経は忠信を奥に下がらせ、静に初音の鼓を打たせる。すると、どこからともなく現れた忠信。静御前につき従っていた忠信の正体は狐(源九郎狐)だった。初音の鼓は、大和の国で1000年生きて神通力を得た雌狐と雄狐の皮でつくられていて、忠信に化けた狐は鼓にされた狐の子どもだった。鼓となった親狐を慕い、そのそばにいたい一心で鼓を持つ静御前を守っていたと語りだす源九郎狐・・・(河連法眼館の場)。

 

出演は、源九郎狐と佐藤忠信の二役を尾上菊之助源義経尾上菊五郎静御前中村時蔵、河連法眼・阪東楽善、法眼妻飛鳥・上村吉弥、逸見藤太・阪東彦三郎、駿河次郎中村萬太郎ほか。

 

河連法眼館の場は四段目の切り場(クライマックス)であることから「四の切(しのきり)」とも呼ばれる。武士である本物の佐藤忠信と狐忠信と、菊之助の演じわけが見どころだが、早替わりなどのケレンもあり、狐言葉もおかしくて、どこかユーモラス。

美形で女形も得意の菊之助が狐忠信をやると、妖しげな魅力が増す気がする。

今回の「義経千本桜」の菊之助による知盛、権太、狐忠信の演じ分けは、どの役も難しく、よくぞ“三役完演”にチャレンジしたと思うが、どれも新しい知盛、権太、狐忠信を見た感じで、楽しい3つのプログラムだった。

3プログラムともかぶりつきに近いところで見たが、最後のCプロでは花道七三の近くだったので、静御前時蔵、狐忠信の菊之助をたっぷりと堪能できてうれしいのひとこと。

 

義経千本桜」について、芝居が始まる前の菊之助の声による背景説明で、この物語は「勝者のいない物語」と語っていたのが印象的だった。

狐はようやく親と再会するが、すでに親狐は鼓の皮にされてしまっている。義経にしても追われる身であり、やがて奥州に落ちのびるものの相果てる。静御前も吉野で義経と別れたあと捕らえられ、鎌倉へ送られていく。

物語の一方の主軸である死んだはずだが生きていた平家の武将たちも、結局は再び消えていく運命にある。「生者必滅、会者定離」の無情の世界が描かれているのだが、四の切ではそれが明るく描かれていて、かえって悲劇を際立たせている。

 

今回の主役となる源九郎狐は、奈良の吉野に伝わる伝承をもとにしているようだ。

都落ちした義経一行は西国行きに失敗して吉野に逃れ、その後、京へと向かうが、この時の義経一行の様子が吉野越えの民間伝承として語り伝えられ、義経を守った狐の話が源九郎狐の由来記として残っている。この民間伝承を歌舞伎に取り入れたのが四段目の“狐忠信”だ。

奈良県大和郡山市には、その名も源九郎稲荷神社があり、義経がこの稲荷に助けられたことから源九郎の名を贈ったという伝説が社名の由来となっている。また、吉野山には主君・義経を守るため活躍し、迫り来る追手に対して主君の身代わりとなって奮戦したというので建立された「狐忠信霊碑」がある。

 

きのうの舞台は最後に、親を思う子狐に心打たれた義経が、肉親の縁薄いわが身とひき比べて哀れに思い、狐忠信に鼓を与える。狐忠信は喜び、鎌倉方に味方した僧たちが攻め寄せてくることを知らせるが、この攻め寄せてくる僧たちの頭目こそ、壇の浦で死んだはずの平家の武将、平教経(のりつね)だった。

史実で平氏が滅びたのは山口県下関市の壇の浦だが、その1カ月ほど前、讃岐(香川県)の屋島にも壇の浦と呼ばれる場所があって、忠信の兄・継信はここでの戦いで義経をかばって平家方の教経の矢により戦死する。

今回は割愛されたが、四段目に続く五段目では、源氏との戦いに敗れ西海に沈んだはずの教経が生きていて、復讐のため義経に挑みかかる。本物の佐藤忠信は、狐忠信の霊力の助けを得て教経の首を打ち、兄の敵討ちを果たす。

ところで、ここで登場する平教経は、民間伝承でも死んでなくて、徳島県祖谷(いや)地方の伝説では、教経は安徳天皇ともども四国に落ちのび、祖谷の地で幼名の国盛と名前を変えて御家再興を図ったが、安徳天皇が9歳で亡くなったため再興を断念、祖谷に土着したという。

今年5月に祖谷を旅したとき、谷深く山に囲まれた伝説の地を訪ね、今に伝えられているという平家の赤旗(ただしレプリカ)を見たりしたのを思い出した。