善福寺公園めぐり

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芝居見て泣ける非日常がうれしい 国立劇場「義経千本桜」Bプロ

建て替え工事を前にした「初代国立劇場さよなら公演」の歌舞伎公演の幕開けは、義太夫狂言の三大名作のひとつ「義経千本桜」を3プログラムに分けた通し上演。

義経千本桜」はもともと人形浄瑠璃作品であり、延享4年(1747年)11月、大坂竹本座にて初演。二代目竹田出雲・三好松洛・並木千柳の合作で、翌年には歌舞伎となり、早くも江戸で上演されたという。

源平合戦後、源義経が兄・頼朝に追われて落ちのびていく流転の旅を軸に据えながらも、死んだはずの平家の武将、平知盛、維盛(これもり)、教経(のりつね)は実は生きていて、義経の行く先々に復讐のためあらわれては、まわりの人々を悲劇に巻き込む人間ドラマを展開していく。

全五段で構成される「義経千本桜」のうち、今回上演されるのは、「Aプロ」(二段目の伏見稲荷鳥居前の場、渡海屋の場、大物浦の場)、「Bプロ」(三段目の下市村椎の木の場、下市村竹藪小金吾討死の場、下市村釣瓶鮓屋の場)、「Cプロ」(四段目の道行初音旅、河連法眼館の場)。

全部観ると合計9時間30分(休憩含む)という長丁場。

しかも、狐の化身・源九郎狐、平家の武将・平知盛、市井の無頼漢・いがみの権太というまったく性格の異なる大役を菊之助が一人で演じ分けるというので話題になっている。

ほかに、尾上菊五郎中村時蔵中村又五郎河原崎権十郎、阪東楽善、阪東彦三郎、中村錦之助上村吉弥中村梅枝中村萬太郎尾上丑之助などが出演。

本来なら、おととしの3月に国立劇場で上演する予定だったが、コロナ禍で中止。満を持しての今回の公演となった。

 

思うに、「義経千本桜」は、「平家物語」などを下敷きにしつつも、さらに想像と奇想を加えて、より「平家物語」の神髄をフィクションを織り交ぜてわかりやすく伝えようとした芝居なのではないか。

平家物語」といえば、次の冒頭の書き出しが有名だ。

「祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理(ことわり)をあらわす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、ひとえに風の前の塵に同じ」

そこに示されているのは、この世の中のあらゆるものは流転変化してとどまるところを知らず、やがてはかなく消え去っていくという無常観であり、中でも栄華をきわめている者は必ずや滅するとの滅びの美学だ。

義経千本桜」に登場する、死んだはずなのに生き返った知盛、維盛、教経も、知盛は錨とともに再び海中へと沈んでいき、維盛は無情を悟って出家、教経は源九郎狐の妖術によってやっつけられる。

輪廻転生ではないが、死んだはずのものがまた生き返って,また死んだり消えたりしていく。無情と滅びの世界をよりドラマチックに描いているのが「義経千本桜」だという気がする。

そして義経もまた、最後の地、奥州へと旅立っていく。

 

きのう(3日の月曜日)観たのはBプロの初日で、「椎の木」「小金吾討死」「鮓屋」。

平維盛の妻・若葉の内侍(ないし)、若君・六代君(ろくだいぎみ、本来なら平家の直系の6代目なのでこう呼ばれる)、家来・主馬(しゅめ)小金吾は、維盛を尋ねる旅の途中、いがみの権太に金を奪われ(「椎の木」)、小金吾は追手のため討死(「小金吾討死」)。

鮨屋を営む権太の父・弥左衛門に匿われていた維盛は、自分を捕らえようと梶原景時がやってくるというので一時避難するが、維盛の首とともに内侍と若君を捕らえてあらわれたのが弥左衛門のせがれの権太。褒美の金目当てに源氏方に渡すと、怒った弥左衛門は権太を刃にかける。すると、虫の息の下から権太は意外な真相を打ち明ける・・・(「鮓屋」)。

 

時代物と世話物が巧みに組み合わさっているのが「義経千本桜」だが、「鮓屋」は世話物の雰囲気が色濃い。

しかも、舞台は「吉野下市」と義太夫にあるとおり奈良の吉野なのだが、江戸の役者が完成させた音羽屋型というのがあり、この段はまるで江戸を舞台にしているようで、江戸っ子の権太だった。

悪に徹するワルというより、ちょっと三枚目の感もあるドラ息子の権太を菊之助が見事に演じている。父親の菊五郎も権太をやっているし、仁左衛門の権太も観たことがあり、さすがだと思ったが、大御所2人に負けない強みを菊之助は持っている。それは若さで、役の上の権太と年が似通っているので、“権太くれ”(関西ではいたずら者や乱暴者、ちょっと困った人のことをこう呼ぶらしい)の雰囲気がよく表現できている。

もちろん若いだけではダメだが(名優は何歳になっても若い役ができる)、それにうまさが加わればいうことない。

 

梅枝の弥助実は維盛がとてもよくて、ほれぼれするよう。

そして、米吉の娘お里のかわいく、いじらしいこと。

 

最後の、父に刺されて死を迎えようとしている権太の家族への愛を語る場面は、もう泣けて、泣けて。

昼間っから芝居を見て涙を流すなんて、こんなうれしい非日常はない。