きのうは久々に夕方から歌舞伎座へ。
「十月大歌舞伎」の夜の部。十七世中村勘三郎27回忌、十八世中村勘三郎3回忌の追善公演で、演目は「菅原伝授手習鑑」の「寺子屋」、「道行初音旅」の「吉野山」、それに三島由紀夫作の「鰯売恋曳網」。
「寺子屋」は松王丸に仁左衛門、松王丸の妻、千代に玉三郎、武部源蔵に勘九郎、その妻、戸浪に七之助。
何といっても仁左衛門の重厚感、存在感。同じ存在感でも吉右衛門とは違う。キリッとした存在感とでもいおうか。悲しみを込めた語りのシーンが何ともいえなくいい。わが子の死を嘆くところもそうだが、ことに切腹して果てた弟の桜丸を思い大泣きするところでは、こっちまで涙が出てしょうがなかった。
「十月大歌舞伎」の夜の部。十七世中村勘三郎27回忌、十八世中村勘三郎3回忌の追善公演で、演目は「菅原伝授手習鑑」の「寺子屋」、「道行初音旅」の「吉野山」、それに三島由紀夫作の「鰯売恋曳網」。
「寺子屋」は松王丸に仁左衛門、松王丸の妻、千代に玉三郎、武部源蔵に勘九郎、その妻、戸浪に七之助。
何といっても仁左衛門の重厚感、存在感。同じ存在感でも吉右衛門とは違う。キリッとした存在感とでもいおうか。悲しみを込めた語りのシーンが何ともいえなくいい。わが子の死を嘆くところもそうだが、ことに切腹して果てた弟の桜丸を思い大泣きするところでは、こっちまで涙が出てしょうがなかった。
一方の源蔵役の勘九郎は、重厚感はないが実直な感じ。
今回、一番注目したのは「せまじきものは宮仕え」のセリフのところだったが、勘九郎は「せまじきものは」で長く深いため息を入れ、「宮仕えじゃ」と続けていた。
そのため息にこそ、この芝居がただの滅私奉公の忠君劇ではない人間ドラマの真骨頂があったといえよう。
だからこそ松王丸のセリフに涙するのだ。
今回、一番注目したのは「せまじきものは宮仕え」のセリフのところだったが、勘九郎は「せまじきものは」で長く深いため息を入れ、「宮仕えじゃ」と続けていた。
そのため息にこそ、この芝居がただの滅私奉公の忠君劇ではない人間ドラマの真骨頂があったといえよう。
だからこそ松王丸のセリフに涙するのだ。
「吉野山」は佐藤忠信に梅玉、静御前に藤十郎、早見藤太に橋之助。
梅玉ファンとしてはうれしい演目。ことにこの日は前から4列目の花道近くに座っていたから、七三のところで忠信がキツネに戻ったり人間になったりを繰り返すところが目と鼻の先で演じられ、口では出さずとも心の中で「いよっ、様子がいいよっ!」と声を上げる。
梅玉ファンとしてはうれしい演目。ことにこの日は前から4列目の花道近くに座っていたから、七三のところで忠信がキツネに戻ったり人間になったりを繰り返すところが目と鼻の先で演じられ、口では出さずとも心の中で「いよっ、様子がいいよっ!」と声を上げる。
「鰯売恋曳網」は鰯売猿源氏に勘九郎、傾城蛍火に七之助。
勘九郎の声も演技も、父親の18代目勘三郎に瓜二つだった。
そういえば、歌舞伎座のさよなら公演のときに「鰯売恋曳網」を見ているが、このときに猿源氏をやったのが勘三郎だった。勘九郎は父親の演技を徹底的に勉強したのだろう。するとおのずから父親の声になる。すべてのワザはマネから始まる。勘九郎の今後の精進が楽しみになった。
勘九郎の声も演技も、父親の18代目勘三郎に瓜二つだった。
そういえば、歌舞伎座のさよなら公演のときに「鰯売恋曳網」を見ているが、このときに猿源氏をやったのが勘三郎だった。勘九郎は父親の演技を徹底的に勉強したのだろう。するとおのずから父親の声になる。すべてのワザはマネから始まる。勘九郎の今後の精進が楽しみになった。