善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

ゲゲゲの娘、レレレの娘、らららの娘

このところ「ゲゲゲ」続きだが、『ゲゲゲの娘、レレレの娘、らららの娘』(文藝春秋)を読む。3人の女性の鼎談集だ。

ゲゲゲの娘とは水木しげるの次女、水木悦子さん、レレレの娘は赤塚不二夫の長女、赤塚りえ子さん、らららの娘は手塚治虫の長女、手塚るみ子さん。
何といっても本のタイトルが秀逸。このタイトルを考えた人は、夜中の2時ごろ、寝ているときに思いついて飛び起きたそうだ。

大作家の娘ならではのエピソードが随所に散りばめられていて、ファンとしてはうれしい。
水木悦子さんのお姉さんは手塚治虫の大ファンだったとか。子どものころ、手塚漫画をめぐって、お姉さんは父親の水木しげると大喧嘩をしたことがあるという。お姉さんの一言がすごかった。

「お父ちゃんの漫画には未来がない。手塚漫画には未来がある」

すると水木しげるはこういって怒ったという。

「これが現実なんだ! おれは現実を描いているんだ!」

赤塚不二夫は手塚漫画を読んで漫画家を志し、のちに、手塚も住んでいたことのある「トキワ荘」の住人にもなっていたから手塚と赤塚との親交はあったが、手塚と水木は疎遠だっただろう。

手塚は若くしてチョー売れっ子作家であり、“漫画の神様”とまでいわれた人。一方の水木は紙芝居から貸本漫画と苦労をなめてきて、中年になってようやく売れるようになってきた人。しかしも、両者の作品はとても対称的で、むしろ互いに対抗意識を持っていたに違いない。
手塚の「どろろ」は水木の「鬼太郎」に衝撃を受けて、「おれにだって妖怪が描けるんだ」と作った作品といわれる。

こんなエピソードもある。手塚は出版社のパーティーでまったく面識のなかった水木に話しかけ、「あなたの漫画くらいのことは僕はいつでも描けます」といいはなったという。
水木はのちに手塚をモデルに「一番病」という作品を描いたが、「自分が世界で一番でなければ気がすまない棺桶職人の物語」だという。

手塚の没後、手塚治虫文化賞特別賞を水木が受賞した(03年)。このときのことを水木は自著『水木さんの幸福論』でこう振り返っている。

複雑な思いもあって、内定の連絡を受けて躊躇したが、賞金の百万円も目の前にちらつき、受けることにした。妻も二人の娘も「えっ、もらうの?」と言った。

実は水木は手塚の存在をかなり意識していて、当時スーパースターだった手塚を自分のライバルだと思ったからこそ漫画を描き続けられたと思っていて、手塚賞の受賞はうれしかったのだという。

手塚るみ子さんの次の言葉も胸にグッとくる。

結局ね、生きてなきゃ作品は作れないんだよね。死んでから「素晴らしい、素晴らしい」といくら周りが言ったところで、伝わらないものがある。

手塚治虫は60歳で亡くなった。