善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

かこさとし展→足利学校→桐生・重伝建

2018年に92歳で亡くなった絵本作家のかこさとしの作品を集めた「かこさとしの世界展」が翌年の19年から全国を巡回中で、広島に始まって京都、東京、岩手、愛知、岡山で開催され、東京は見逃してしまって、今年10月から群馬県館林市の県立館林美術館で12月25日まで開催中というので、車で出かけていく(ドライバーは運転上手な若者にお願いした)。

 

関越自動車道を経由して2時間ほどで美術館着。

この美術館は2001年に2館目の県立美術館としてオープン。冬にはハクチョウが飛来する多々良沼の北東に位置し、自然豊かで敷地面積も広大、建物も広々としている感じ。

ハクチョウが飛んでいたが、カメラがとらえたのはダイサギだった。

スズメが集まってきて羽を休めていた。

ウサギのブロンズ像が飛び跳ねていた。

 

かこさとしの絵本は家族みんなが大好きで、「だるまちゃん」や「からすのパンやさん」シリーズ、「おたまじゃくしの101ちゃん」「どろぼうがっこう」などの作品は今も思い出深い。

展覧会では、原画や下絵などの資料約160点が並び、かこさとしがなぜ絵本をかくに至ったのか、彼の作品世界のすばらしさ、その魅力はどのようにして生まれたのかを、改めて知ることができた。

かこさとし福井県の生まれだが、7歳のときに東京に引っ越す。大学生のとき終戦を迎えるが、戦時中は軍国少年航空士官をめざし、人の命を奪う戦争に行きたいと考えたことから、戦争が終わると、そんな自分に苦しんだという。

彼は子どもの役に立つことで生きる意味を見つけようと、東大の在学中からセツルメント活動を始めた。セツルメントとは、学生らが都市の貧困地区に出かけていって保育所を運営したり、教育、医療活動などの社会事業を行うことだが、彼はその当時住んでいた川崎で仲間たちとともに子ども会を運営して、子どもたちと一緒に遊んだり、自作の紙芝居を見せたり、子どもたちに絵を描かせたりする活動に取り組む。

子どもたちは、彼のつくった紙芝居を見ても、つまらなければすぐにいなくなってしまう。いかにおもしろい紙芝居をつくるか、それが彼の創作の原点となったという。

展覧会の会場ではビデオが上映されていて、かこさとしが当時つくった紙芝居を、訪ねてきた美術史学者の辻惟雄(ともに東大セツルメントで活動していた)に説明するシーンが映し出されていたが、その紙芝居はとても大きくて、いかに子どもたちが喜ぶようなものをつくるため知恵を絞ったか、その腐心ぶりがよくわかった。

ビデオの中でも彼は「大切なことはみんな子どもたちに教わった」と述べている。 

のちに絵本となって評判となった「どろぼうがっこう」も、川崎の子どもたちのためにつくった紙芝居が元になっている。この紙芝居をつくったときはとても仕事が忙しいときで、書きかけの論文の下書きの裏に描いたモノクロの紙芝居を子どもたちの前でやったら大ウケで、「もういっぺん、もういっぺん」と何度もせがまれたという。

 

かこさとしが絵本作家になったのは、偶然が引き合わせたようだ。

1953年2月に開催された第6回アンデパンダン展に「平和のおどり」(1952年)という作品を出品した。この絵は、大きな画面いっぱいに、大人も子どもも動物も鳥も、輪になって楽しそうに盆踊りを踊っている姿が描かれている。戦時中、彼は戦争に行こうと誤った判断をしてしまったけれど、これからの子どもたちはちゃんと自分で考えて正しい判断をして、平和で健やかに育っていってほしい、その思いを絵にしたのが「平和のおどり」だった。

この絵を絵はがきにしたところ、子ども向け絵本の作家を探していた出版社の編集者がそれを見て、「この人ならば」と声をかけたのがきっかけだったという。

 

かこさとしはそのころ昭和電工に勤めていて、仕事のかたわら絵本をつくっていたが、1973年、47歳で会社を辞め、一人立ちする。

会社を辞めた年に描いた「からすのパンやさん」の下絵が展示されていたが、罫線のある昭和電工の事務用紙に描かれていた。自分で紙を買うだけの裕福さではなかったことがわかるとともに、紙であっても物を大切にする生真面目さを感じて、微笑ましく思った。

 

じっくり展覧会を見たものだから、見終わるまでに2時間ぐらいかかり、美術館内にあるワッフル専門レストラン「エミール」で昼食。

1日分の野菜が摂れるワッフルプレート。

 

食後は、せっかくここまで来たのだからと、足利市にある「足利学校」と、桐生市にある「桐生新町(しんまち)重要伝統的建造物群保存地区(略して重伝建地区)」をめぐる。

まずは足利学校

 入徳とは道徳心を習得する場所、すなわち「学校に入る」という意味だそうだ。

「日本最古の学校」「日本最古の総合大学」などといわれる足利学校だが、創建年代には諸説あるようだ。

古くは奈良時代国学の遺制であるという説。また平安時代初期、天長9年(832年)小野篁(おののたかむら)が創建したという説。鎌倉時代の初期に鑁阿寺を開いた足利義兼(足利尊氏六代の祖)が建てたという説。室町時代中期、永享11年(1439年)に関東管領(かんとうかんれい)上杉憲実(うえすぎのりざね)によって開かれたという説などがあるが、学校の歴史が明らかになるのは室町時代中期以後という。

上杉憲実が関東管領になると、学校を整備し、学校領とともに孔子の教え「儒学」の5つの経典のうち四経の貴重な書籍を寄進し、鎌倉から禅僧快元(かいげん)を招き初代庠主(しょうしゅ、校長)とし、学問の道を興し、学生の養成に力を注いだといわれる。

透かし彫りがトラの顔に見えるんだが・・・。

道路のマンホールにも「学」の文字。

 

足利学校の近くにある足利氏ゆかりの寺、鑁阿寺(ばんなじ)。

鎌倉時代の建久7年(1197年)に足利義兼によって建立された真言宗大日派の本山。

約4万㎡に及ぶ敷地はもともと足利氏の館(やかた)であり、現在でも四方に門を設けて土塁と堀がめぐらされており、平安時代後期の武士の館の面影が残されている。

「史跡足利氏宅跡」として国の史跡に指定されており、日本の名城百選の1つでもある。

国宝の本堂。

鎌倉時代後期の特徴をよくあらわす禅宗様建築は全国的にも類例が少なく、貴重な文化財という。

 

国の重要文化財の鐘楼。

早くもウメが咲いていた。

 

続いて桐生市にある「桐生新町重要伝統的建造物群保存地区」。

桐生新町は今から約400年前の江戸初期に天満宮を起点としてつくられた町並みで、現在でも織物の産地、桐生を象徴するように織物関係の蔵や町屋、ノコギリ屋根工場など歴史的な建造物が多く残されている。

1916年(大正5年)建築の矢野本店。江戸風の商家構えが特徴。

 

町並み保存の拠点ともなっている有鄰館。

かつては酒・味噌・醤油を醸造し、保管するために使用されていた江戸時代から昭和時代にかけての11棟の蔵群が、現在は舞台や展示、演劇、コンサートなどさまざまな用途に使用されている。

「有鄰」とは、孔子の「論語」の中の「徳は孤ならず、必ず鄰あり」に由来しているという。

 

桐生の「重伝建」の何といっても特徴はノコギリ屋根の工場だろう。

ノコギリ屋根とはノコギリの歯の形に似た三角屋根の建物で、主として紡績や織物、染色関係の産地に多く見られる工場建築という。

もともとイギリスで考案されたといわれるが、日本では1883年(明治16年)大阪紡績三軒屋工場がイギリス帰りの技術者の指導で建てられたのが始まりとされる。その後、東京や岡山、桐生でもノコギリ屋根工場が建設された。

今でもノコギリ屋根の建物が多く残っている桐生では、明治期に13棟、大正期に36棟、昭和戦前期には175棟、1945年(昭和20年)~1960年(昭和35年)に96棟が確認されているが、1969年(昭和44年)を最後に建てられなくなったという。

 

大谷石を使った石造のノコギリ屋根。

旧曽我織物工場(国登録優性文化財)。

1922(大正11年)建築の5連のノコギリ屋根工場だ。

壁面の丸窓がアクセントになっている。

 

大正5年から10年にかけて建てられた木造のノコギリ屋根工場。

 

現在は車庫になっているノコギリ屋根工場。

 

イギリス積みのレンガ造りのノコギリ屋根工場の建物(大正9年建設)は「ノコギリ屋根のパン屋ベーカリーカフェ・レンガ」に生まれ変わっていた。

店内で見つけたノコギリ屋根のケーキ。

なぜノコギリ屋根なのか。屋根の北側にのみ窓を設けることで、一日中均一な採光を得られるのが利点という。

南に面していると太陽の位置によって取り入れる光の量が変化するため、織物の色合いのチックなどの仕事に支障が出るらしい。

そういえばダイヤモンドの取引は北向きの窓の下で行われるというし、画家のアトリエの窓は北向きが基本といわれる。

 

北向きに大きな窓のあるノコギリ屋根工場。

 

重伝建地区の“街の銭湯”一の湯。

織物工場の女性従業員たちの共同浴場として建てられ、1912年(大正元年)年には銭湯として営業していたという。しかし、経営していた人が2018年に亡くなり、後継者がなく廃業してしまった。

たまたま訪れて風情ある外観と内装に一目ぼれして埼玉県から移住してきた女性がいて、現在、リニューアルオープンをめざしてクラウドファンディングを行っているそうだ。

そのうち“重伝建銭湯”から再び湯気が立ちのぼるかな?

 

ほかにも地区の再生の動きはあるみたいで、織物産業自体は衰退してしまっているようだが、せっかくの歴史的な町並みを存続させ、さらに魅力あるものにしていこうと、さまざまな取り組みが行われているようだ。

 

やがて日も暮れてきて、一路東京へ。

かこさとしから重伝建まで、楽しい1日だった。