三島市の佐野美術館で開催中の「渡辺省亭(せいてい)-欧米を魅了した花鳥画」展を観る。仕事で三島に行ったついでに行くことができた。
今年4月に開催の「ミネアポリス美術館 日本絵画の名品」展で観た渡辺省亭の作品(「紫式部図」)がとても印象に残り、それまでまるで知らなかった画家だっただけに「もっと評価されていい画家ではないか」と思ったら、東京で渡辺省亭展が開かれると知り、行こうとしたらコロナの影響で展覧会は中止。残念に思っていたら、主催が中日新聞社系の東京新聞だったからか、三島にも巡回するとわかり、ようやく観ることができた。
省亭は明治から大正にかけて活躍した日本画家。ただし、日本美術院などの中央画壇とは距離を置き、気ままに絵を描く生活をしていたからか、没後は知る人ぞ知る存在となっていたが、再評価の気運が高まっているところという。
本展は、海外や個人の所蔵を中心とした名品約100点が一堂に会した回顧展。
全体を観た印象は、これまでの日本画の巨匠たちの作品とはかなり違う印象があった。屏風画はほとんどなく、掛け軸が多いからか華やかさはない。それなら地味な作品ばかりかというというとそんなことはなく、卓越した技法で独特の画風が感じられる。どの絵もリアル。といって細部まで細かく描くのではなく、省略が大胆にされていて、それによってかえってどの作品にも写実を超えた「動き」があり、その場の空気までもが漂ってくる。
たとえば「牡丹に蝶の図」(1893年)。大きく咲く紅白のボタン(牡丹)にクロアゲハがとまっているが、やけにアゲハが小さい。すごいデフォルメ。それによってよりボタンのたわわさが強調されている。
興味深いのは、左上に、花が終わって散り始めたボタンが描かれている。そこから雄しべのようなのが、かすかな風に流されて、下に落ちている花びらに向かって空中を漂っていく。
大輪のボタンと小さなチョウの静に対して、風に流される雄しべの動。かすかではあるが移りゆく自然の姿がそこにある。
渡辺省亭(1852年~1918年)は、幕末のころ、江戸・両国橋近くにある代々秋田藩の札差(ふださし)をしている商家の次男として生まれた。幼くして父を亡くすが、子どものころから絵が好きで、また上手だったため、12歳で商人となるために奉公に出るも送り返され、16歳で歴史人物画を得意とした日本画家・菊池容斎のもとに弟子入りする。
菊池容斎の指導は独特で、「書画一同」の考えのもと入門して3年はひたすら習字をさせられ、その後は放任主義。技術は教えるけれど、どんな絵をどう描くかは自由にやれという指導で、ただ、町へ出たときは見かけた人の服装や様子を細かく観察することを教えられたという。
省亭は日本画家で初めてパリに渡った人物でもある。といっても画家としてではなく、貿易会社の嘱託社員としてだった。1875年に輸出用陶器などを扱う日本最初の貿易会社に就職した省亭は、七宝焼などの図案を描くことで評価され、パリ万国博覧会での出品と受賞を機にパリに渡ったのだった。3年間のパリ滞在中、エドガー・ドガを始め多くの印象派の画家と交流。その中で、印象派の色彩表現や写実表現を取り込んだ独自の作風を切り開いていったといわれる。
先人たちが到達した技法や感性から学びつつ独自の世界を創り出す。それは、ゴッホがミレー敬慕し、ミレーの農民画の版画や複製を手にいれては熱心に模写し、ミレーの絵から学びながら自分の世界への方向性を切り開いていったのとまったく一緒で、省亭は、彼が生まれるより50年も前に亡くなった江戸時代の画家、伊藤若冲(じゃくちゅう、1716年~1800年)の影響をかなり受けている気がする。
その一番いい例が「雪中鴛鴦(えんおう、オシドリ)之図」(1909年)だ。
これとそっくりなのが伊藤若冲の作品にあり、それは最近、国宝に指定された「動植綵(さい)絵」30幅の中の「雪中鴛鴦(えんおう)図」だ。
冬の水辺の雪景色の中にオシドリのオスとメス、雪の降り積もった枝には3羽の色鮮やかな鳥がとまっている。
若冲の絵も省亭の絵も、構図もサイズもほぼ同じで、雪が降り積もった枝の描写は構図から何から全く一緒。
ただ、鳥の描き方が違う。若冲のオシドリのオスは石の上に片脚で立ち、メスは水中にもぐってお尻だけ出している。しかし、省亭はオシドリのオスとメスが寄り添うようにしているところを描いていて、上部の枝にとまる3羽の鳥は、若冲のとは違う鳥をリアルに色鮮やかに描いている。
省亭が若冲の「雪中鴛鴦図」を克明に模写し、その上で自分の作品として描いているのは明らかだろう。しかも、省亭はオシドリやほかの鳥の描き方を変えることで、若冲を乗り越えようとしているようにもみえる。
同じようなことを省亭は自分の師である菊池容斎に対しても行っている。
容斎の作品に「塩冶高貞妻出浴之図」というのがある。
14世紀の「太平記」に取材した歴史人物で、南北朝時代の武将・塩冶高貞(えんやたかさだ)の美人妻・顔世に足利尊氏の執事・高師直が横恋慕し、入浴する裸の顔世をのぞき見るという場面。
師から歴史人物画の技法を学んだ省亭も、「塩谷判官の妻」と題して全く同じ構図の作品を残しているが、師の容斎がのぞき見る高師直を描いているのに対して、省亭はのぞき見る師直をあえて描かず、美人画(裸体画)として描いている。
ここでも、亭省は師の絵から学びつつも、それに終わらない。あえてのぞき見る師直を描かないことでよりドラマチックさをねらい、なおかつ顔世の裸身を際立たせている。
ところで、省亭は若冲の「雪中鴛鴦図」をどこで目にし、どうやって模写したのだろうか?
「雪中鴛鴦図」を含む「動植綵絵」(全30幅)は、1757年から1766年ごろにかけて制作され、「釈迦三尊図」(3幅)とともに、両親と弟、そして自身の永代供養を願って京都の臨済宗・相国寺に寄進された。
相国寺では毎年6月の「観音懺法会」の折に33幅を参拝者に一般公開してきたが、明治時代の廃仏毀釈により窮乏した時期の1889年(明治22年)3月、「釈迦三尊像」の3幅だけは寺に残し、「動植綵絵」30幅は明治天皇に献納。このときの下賜金1万円のおかげで財政的に一息つくことができたという。
しかし、その後は宮内庁が管理することになり、一般の目に触れることなくなってしまった。ようやく一般に公開されたのは2007年のことで、献納から約120年ぶりに、相国寺において「動植綵絵」全30幅と「釈迦三尊像」3幅が同時公開された。また2016年には若冲生誕300周年を記念して東京都美術館において、東京では初めて「動植綵絵」全30幅と「釈迦三尊像」3幅が同時公開された。
ということは省亭が「雪中鴛鴦之図」を描いた1909年(明治42年)当時は「動植綵絵」は皇室御物として門外不出だったはずだ。ただし、何といっても名品だけに、皇室としても倉庫の奥にただ眠らせておくことはしないで、大事な賓客を迎えたりしたときなどに飾られたりしたようだし、1904年(明治37年)のセントルイス万博の際には、川島織物が「動植綵絵」のうち織物に適した15幅を綴織りで再現して出品しているという。
省亭は「雪中鴛鴦之図」を描く前に皇室に関係する仕事をしている。
1906年(明治39年)、東宮御所(現在の迎賓館赤坂離宮)の建立にあたり、七宝額の原画制作に省亭があたることが決まり、1909年(明治42年)完成の東宮御所の「花鳥の間」「小宴の間」に省亭原画による七宝額が飾られた。
省亭の「雪中鴛鴦之図」が描かれたのもこの年だ。
七宝額の原画制作の打合せなどで皇居を訪れた際、若冲の「雪中鴛鴦図」を見る機会があり、何らかの形で模写する機会も得られたのではないだろうか。
省亭は、画家として第一線で活躍していたころは積極的に展覧会に出品したりしていたが、1898年に日本美術院が創設されると、参加を求められるも辞退し、特定の美術団体や展覧会とは距離を置くようになる。当時、美術院は岡倉天心や狩野派の橋本雅邦らが中心となっていて、彼らの下につくのがいやだったとの説がある。
結局、市井の画家として、頼まれれば筆をとるという生活を続け、住まいのある浅草周辺からはほとんど出ることはなく、1918年(大正7年)、68年の生涯を閉じた。
省亭の絵を観たあとは、美術館に隣接した「松韻」というレストランで、せっかく海に近い三島に来たのだからとにぎり寿司を食べる。
食後は、駅に向かう途中で近くにある三嶋大社へ。
本殿、幣殿、拝殿は国の重要文化財。
写真は拝殿。
拝殿の奥(左)にあるのが本殿。
駅に向かう途中の公園で、川遊びする子どもたち。
三島駅のホームからは富士山が見えるのだが、あいにく曇っていた。