善福寺公園めぐり

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「寺子屋」に現代人はなぜ泣くか

犬丸治『「菅原伝授手習鑑」精読 歌舞伎と天皇』(岩波現代文庫)を読む。

本書は2012年出版の本だが、近々歌舞伎座で「菅原伝授手習鑑」の「寺子屋」を観るため、事前学習?のため手にとったもの。

「菅原伝授手習鑑」は時代物人形浄瑠璃で全5段。竹田出雲・並木千柳・三好松洛・竹田小出雲の合作。菅原道真の失脚と、それに巻き込まれた牛飼舎人、3ツ子の3人兄弟の悲劇を描いた名作で、延享3(1746)年大坂・竹本座で初演された。人形浄瑠璃の大好評を受け、すぐに歌舞伎でも上演されることになり、今日でもしばしば上演されている。

一見すると忠義一辺倒で封建思想そのものの芝居だが、それでも「寺子屋」の“子殺し”に現代のわれわれまで涙してしまう。
それはなぜだろう。

「菅原伝授手習鑑」ほど時代に翻弄された歌舞伎はない、と筆者は見る。
寺子屋」は、戦前、忠君愛国の国民演劇ともてはやされ、あらゆる表現の自由が取り締まわれた時代にあって官憲からも興行側からも堂々と上演していい天皇制賛美の「天皇劇」「国体明徴劇」だった。
逆に戦後は、GHQによって「軍国主義の鼓舞」として真っ先に上演を禁止された。
すると、やっぱり「寺子屋」は封建制の遺物なのか?
筆者は「寺子屋」のセリフ「せまじきものは宮仕え」に注目する。

道真(菅丞相)の弟子の武部源蔵は村の子どもを集めて「寺小屋」を開いており、ここには大恩ある道真の嫡子が匿われている。ところが源蔵は庄屋に呼ばれて、嫡子の首を討って差し出せとの道真の政敵・時平よりの厳命を受ける。間もなく、検死役人の春藤玄蕃と、首実検役の松王丸(道真に恩がありながら時平方についていて、嫡子の顔を知っているのはこの松王丸のみ)の2人が寺小屋に嫡子の首を受取りにやってくる。

思案に暮れる源蔵。もとより若君の首を討つことなんかできない。となると、寺子屋の弟子の中から身代わりの子どもを探すしかないが、「いずれも山家育ち」で身代わりになりそうな品のある子どもはいない。弱った。
ところがそこに、松王丸の女房千代が、道真の若君の身代わりとして最愛の息子・小太郎を入門させる。この子ならば品があって身代わりにピッタリとホッとする源蔵。
しかしその一方で「弟子といえばわが子も同然」なのに、身代わりにして首をはねなければならない。そこで源蔵のセリフ。
「せまじきものは宮仕え」
「宮仕えなんかするもんじゃない」といって嘆く源蔵。そこから源蔵の苦悩が伝わってくる。
ところが、元々の歌舞伎はそうだったのだが、明治に入って、この部分は、迷う妻の戸浪を「宮仕えはここじゃわい」と励ますように改悪されてしまったという。

冷静に考えれば「寺子屋」はグロテスクそのものの劇である、と筆者はいう。
いくら若君が窮地だからといって、「わが子も同然」の幼い寺子を身代わりに殺そうという発想がまずおかしい。松王丸にしても、夫婦相談してわが子を殺させるためにわざわざ寺子屋に入門させるのも常軌を逸している。
こんな異常なことがたとえ舞台であっても正当化されるのは、「主君のため」のただ一点のみ。
「何にも代えがたい忠節を尽くさねばならぬ主君のへの苦衷と葛藤。そのせめぎあいに、源蔵の『せまじきものは』という呟きがあり、松王丸夫婦の慟哭があり、哀切な『いろは送り』があって、観客は矛盾を忘れて浄化される」と筆者は説く。
それが「宮仕えはここじゃわい」と改悪され、「寺子屋」は国民精神高揚の劇として変質していった。
道真を天皇と置き換えて、忠義のためにはわが子を犠牲にするのも当然とするのは、「日清戦争から日露戦争へと向かう、明治という時代の精神だった」と筆者は述べる。

本書によれば、江戸時代には歌舞伎などでもかなりおおらかに天皇を扱っていたという
文政2(1819)年玉川座の鶴屋南北作「恵方曽我萬吉原」という芝居では、孝謙天皇弓削道鏡との濡れ場が赤裸々に描かれていたという(実は板の間稼ぎの男女の夢だったというオチ)。
しかし、明治維新をへて近代となり、「大日本帝国憲法」で天皇が至尊と規定され、不敬罪・大逆罪が制定されるにいたり、天皇をそのまま舞台にのせるのは一種のタブーとなり、とくに天皇神格化と、それを支える「国体明徴」が叫ばれるようになると、天皇に関する表現は大幅に制約され、逆に忠君愛国が奨励されるようになった。

それが「寺子屋」のセリフの改悪にまで至ったのだろう。
しかし、もともと江戸時代の歌舞伎とは庶民のためのものであり、武士にへつらうものではないはず。
この芝居で作者が本当にいいたかったことは、決して忠義の勧めなんかではなく、忠義のためには小さな子どもの命までも犠牲にしなければならない社会への憤りと苦悩だったのではないか。

それだったら心置きなく涙が流せる。