善福寺公園めぐり

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五月文楽 11代目豊竹若太夫襲名披露公演

五月文楽公演は、国立劇場が建て替え中のため(といったって工事はいまだ始まってない)、初めて東京・北千住の「シアター1010」で開催。

北千住駅に直結しているので駅からは便利。「1010」は「センジュ」と読むらしい。

午前11時開演のAプロは豊竹呂太夫改め11代目豊竹若太夫襲名披露公演で、まずは襲名を寿ぐ「寿柱立万歳」、続いて襲名披露狂言の「和田合戦女舞鶴 市若初陣の段」。太夫は若太夫、三味線・鶴澤清介、人形・桐竹勘十郎ほか。「近頃河原の達引」は太夫・竹本織太夫ほか。

豊竹若太夫の初代は、18世紀初めに竹本義太夫率いる竹本座から独立して始まった豊竹座の祖として活躍した人だというから、豊竹若太夫は大名跡。今回襲名した11代目は、昭和前期に豪快な語り口で知られた10代目の孫で、57年ぶりの若太夫襲名。今年77歳となるが、まさしく円熟の新若太夫といえる。

会場ロビーは襲名を寿ぎ華やいだ雰囲気にあふれていた。

新若太夫が襲名披露狂言に選んだ「和田合戦女舞鶴」は、元文元年(1736年)大坂豊竹座にて初演というから、今から288年前、初代豊竹若太夫が初演の舞台にかけ、なおかつ新若太夫の祖父の10代目が1950年に若太夫を襲名したときに襲名披露狂言に選んだ演目。

となれば、どうしたって新若太夫もこの演目を選ぶしかないが、それにしては実に理不尽で、いくら古典芸能の文楽だといっても現代に生きるわれわれにはとても理解できない内容だ。

主君のために身代わりとして自分の息子の首を差し出すというのだが、似たような話で「寺子屋」があり、あちらは共感できるところがあって歌舞伎でもたびたび上演されるが、こちらは理不尽すぎて歌舞伎でもあまりやられてないし、文楽でも東京での上演は35年ぶりという。

何しろ、正義漢に燃える11歳のわが子を、その正義漢につけ込んでだまし、自害させて「あっぱれ」というんだから、いくら封建社会における忠義の物語といっても理不尽すぎる。逆に、おかげで悲劇性は増すだろうが・・・。

 

舞台は鎌倉。源頼朝の次男、源実朝は12歳にして第3代将軍となるが、執権を務める北条氏と実力者の和田氏が対立。その中で、実朝の妹斎姫(いつきひめ)に横恋慕した荏柄平太が姫を殺害して姿を消す。本当は殺害なんかしてなくて、北条・和田の対立を煽って漁夫の利を得ようとする悪者をだますための策略なんだが、文楽・歌舞伎のお約束通りそのことは内緒にされる。

平太の妻綱手(つなで)は息子の公暁丸(きんさとまる)とともに実朝の母政子尼公(あまぎみ)の館に匿われている。

妹の斎姫を殺した、つまりは主殺しをしたというので実朝は荏柄を捕まえるための軍勢を差し向けるが、事を荒立てたくないというので11歳以下の御家人の子どもたちを軍勢に仕立てる。

浅利与市の妻で武芸に優れた板額(はんがく)は館を守る役を引き受け、待ち構えるが、自分の息子で11歳になる市若丸の姿がないので気を揉んでいる。

 

というわけで始まるのが「市若初陣の段」。

夜になったというので子どもたちの軍は引き揚げて、遅れてあらわれたのが鎧兜に身を包んだ市若丸。「よくぞやってきた」と喜ぶ母。初陣のわが子に手柄を立てさせたい板額は、主殺しの荏柄の息子公暁丸を、一族郎党同罪というので首を打とうとするが、政子尼公は意外な事実を告げる。実は公暁丸は荏柄の息子ではなく、先代将軍頼家の遺児であり、実朝に子どもができなかった場合に備えて、血筋を絶やさないため将軍家の跡目にしようと隠れひそませていたというのだ。

政子から公暁丸の命を助けるように頼まれた板額。こうなったら自分の息子を身代わりにするしかない決心して、一間に忍んでいる市若丸に、実はそなたは浅利与市の息子ではなく荏柄の子どもであると芝居を打つ。母の言葉を信じて、自分は荏柄の子どもだったのかと観念した市若丸、武士として潔い最期を遂げようと切腹してしまう。

虫の息となった市若丸に、母はようやく本心を語る。

「お前が死ぬのは尼君さまや若君さまの命の代わり。本当は荏柄の子ではなく、浅利与市と私の子ども。お前が死ぬのは手柄も手柄、大手柄」

それを聞いて、「そんなら荏柄の子ではなく、死ぬのも手柄になりますか。うれしゅうござる。さらばでござる」といって市若丸は死んでいく。

しかし、のちのちになって、荏柄は実は姫を殺してなくて、姫を守るために働いていたことがわかり、将軍家の血を絶やさないためにと市若丸が身代わりとなった公暁は、実朝暗殺ののち追手に討ち取られてしまい、源氏は滅亡してしまった。

せっかくの死も無駄に終わる、何という残酷な展開だろうか。

 

しかし、この舞台を見た江戸時代の人々は、11歳の若武者の健気さに涙したことだろう。

若年ながら鎧兜に身を包み、弓矢を携えてさっそうと登場した市若丸。「兜を猪首に着せる」という太夫の語りがあったが、ここでの「猪首」とは「首が太くて短い」という意味ではなく、兜を後ろにずらしてあみだにかぶった姿が猪首に見えることからこういうのであって、敵の刀も矢も恐れない勇ましいかぶり方なんだそうだ。

そして何といっても見どころは、母である板額の苦悩と嘆きだろう。

父親は遠くで見てるだけで、まるで無責任。一人母が息子にウソをついて、身代わりとして息子を死に向かわせなければならない。

市若丸が潔く腹を切り、いまわの際に「たとえ荏柄の子であろうと、やっぱりお前さまや与市さまを親と思っているほどに、子じゃと思ってご回向頼みあげます」と懇願すると、板額の思い頂点に達し、「何の荏柄の子であろうぞ、お前はほんの、ほんの、ほんの、ほんぼんのわが子じゃわいのう!」

板額の張り裂けるような言葉が、あまりに理不尽な展開だものから余計に見る者の胸に迫ってくる。

そして板額の絞り出すような嘆きのセリフ。

「何の因果で武士(もののふ)の、子とは生まれて来たことぞ」。

主君への忠義と、しかし同時に強い親子の情愛。それらがない交ぜとなり、母と子の哀切を極めた悲劇を描いているところが、理不尽さの中での救いとなっていた。