宿の近くにロバート・キャパの名を冠したアートギャラリーがあった。
「ロバート・キャパ現代写真センター」といって、ハンガリー出身の報道写真家ロバート・キャパの現存する最大のコレクションを所蔵しているという。
ロバート・キャパのデビュー作で、彼の名を最初に知らしめたトロツキーの演説を撮った写真。
トロツキーを撮ったときの35㎜のネガフィルムも展示されていた。
ほかにも、「崩れ落ちる兵士」とか、“ちょっとピンボケ”で知られるノルマンディ上陸作戦の写真など。
キャパのポートレートも展示してあった。
キャパが日本にやってきたときの写真もあった。
キャパは本名をフリードマン・アンドレといって、「ロバート・キャパ」という名前は、彼の恋人で同じ写真家だったユダヤ系ポーランド人のゲルダ・タローとともに生み出した架空の写真家の名前だった。写真が売れなかった初期のころ、自分たちの写真を「アメリカのすごい写真家、ロバート・キャパの作品」とすることで、フランスの編集者に本来の倍近い値段で売ることができたという。それに味をしめ、以後、名前をロバート・キャパとすることにしたのだとか。
ちなみにゲルダ・タローのタローというのも架空の名で、パリにいたときキャパと親しかった岡本太郎にちなんでタローと名乗ったというが、26歳の若さで戦場で亡くなっている。
ゲルダは反ファシズムのシンボル的な存在だったという。彼女の死は多くの人々を悲しませ、パリ市内の墓地に埋葬されると、彼女の墓碑をデザインしたのはジャコメッティだった。逆にナチスはゲルダを憎んだのだろう、パリ占領後、ゲルダの墓碑銘は削り取られてしまうが、ジャコメッティは戦後ふたたび新たな墓碑をつくっている。
ゲルダの突然の死はキャパに大きな喪失感をもたらした。彼は何日も部屋に閉じこもり、ようやく涙が涸れ果てたとき、彼はひとりのキャパとして生きていく決意をしている。
そんなキャパの写真の数々を見ていて、ポーランドのアウシュビッツを訪ねときに抱いた疑問のひとつ、すなわちその当時ドイツと同盟国だった日本はユダヤ人に対するホロコーストにどうかかわったか、気になってますます頭から離れなくなった。日本に帰ってから少し調べたことがあるので書き記しておきたい。
大日本帝国だった戦前の日本は、ユダヤ人に対してはもともと寛容な政策をとっていたという。
ところが、1936年に日独伊防共協定、1940年に日独伊三国軍事同盟が締結されると様相は変わる。1941年12月に太平洋戦争が勃発すると、1942年3月、日本はユダヤ人への寛容な方針を転換し、「元来猶太人(ユダヤ人)は悪い奴ゆえ、今後これを厳重に取り締まらんとする趣旨」の「時局に伴ふ猶太人対策」を決定している。
その前の1941年5月、駐日ドイツ大使館付警察武官として東京に赴任した人物にナチスドイツの親衛隊将校、ヨーゼフ・マイジンガーがいた。彼はポーランドのワルシャワで大量虐殺を行い「ワルシャワの虐殺者」と異名を取った男だった。
彼は、日本滞在中、日本の憲兵隊や特高警察と連絡を取り合い、「反ナチス」と目された在留ドイツ人の摘発をしたりしていたらしいが、当時の日本政府にホロコーストの加担を要求したともいわれている。
1942年6月には、親衛隊トップでホロコーストの指揮を取ったヒムラーの命を帯びて上海に赴き、日本政府に対し上海にいるユダヤ難民の「絶滅」を迫り、ユダヤ人虐殺のための3つの案として「廃船にユダヤ人を詰め込み、東シナ海で日本海軍に撃沈させる」「岩塩坑で強制労働に従事させ過労死させる」「長江河口に収容所を建設し、ユダヤ人を収容して生体実験の材料にする」を提示した。しかし、日本政府はこの案を受け入れなかったといわれる。
その後もマイジンガーは特高警察などと連携を取りながら終戦まで日本にいたが、進駐してきた連合国軍に逮捕されポーランドのワルシャワに移送されて裁判にかけられた。同地における虐殺行為の罪で死刑判決を受け、1947年3月、絞首刑に処せられている。
このように日本は、ナチスとイデオロギー的には一致していても、ヨーロッパ人であるユダヤ人に対してはホロコーストに加担することはなかったようだ。
それは、ユダヤ人に限らず、ロシア人や米国人、英国人などの「白人」に対して持っていた「劣等感」ゆえかもしれない。むしろ、そうした“白人コンプレックス”の裏返しとして、日本は同じアジア人である中国人や朝鮮人に対して、「優越感」丸出しの差別意識にもとづく残虐な行為を行っている。
戦後になって明らかになったのは日本軍による中国の捕虜などに対する細菌戦のための人体実験で、その中で最もよく知られているのは、石井四郎軍医中将(終戦時の階級)によってつくられ、中国東北部のハルビン郊外にあった七三一部隊(関東軍防疫給水部)だ。
しかし、最近の研究では、七三一部隊は中国各地からシンガポールなどの南方にまで広がる「石井機関」の一部にすぎず、そのかなめは東京の陸軍軍医学校防疫研究室にあり、その活動には当時の日本の医学界をリードしていた多くの大学教授たちが嘱託として協力していたといわれる。
このうち七三一部隊に送り込まれた捕虜は中国人、ロシア人をはじめモンゴル人、朝鮮人などで、女性、子どもも含まれていて、彼らはマルタ(丸太)とよばれ、1000種類以上の生体実験、生体解剖に使用された。「マルタ」は2日に3体の割で「消費」され、1939~1945年だけで3000人以上が犠牲になったという。
南京大虐殺も忘れてはいけない事件だ。日中戦争開始から間もない1937年12月の南京入城を前後し、南京攻略戦と占領時に日本軍が行った中国の軍民への残虐行為だ。
南京の都市部や農村部で中国兵捕虜や住民らを殺害し、強姦などを重ね、犠牲者数はいまだ不明のようだが、戦後の戦勝国による東京裁判では被害者は20万人以上、国民党政府が設置し中国戦線の戦争犯罪を裁いた南京軍事法廷では30万人以上とされ、日本側研究では数万~20万人などと推計されている。
なぜ大虐殺が起こったのか、中国軍、中国人に対する蔑視があり、中国人捕虜なら殺しても問題にならないという感覚があった、との指摘がある。
また、戦時中、日本軍の関与の下でつくられた慰安所で、「お国のためのご奉公」というので慰安婦にされた朝鮮や台湾などの女性の数は、10万人とも15万人ともいわれている。
これは戦争中のことではないが、1923年に発生した関東大震災の混乱の中で、多くの朝鮮人らが虐殺された事件もあった。
結局のところ、ユダヤ人の絶滅を企んだナチス・ドイツにしても、中国人・朝鮮人などに残虐行為を行った日本にしても、そこには共通するものがある。それは、人権侵害を正当化する優性思想であり、反共・右翼思想だ。男女も含めて平等なんてあり得ない、人種・民族にしても優秀なのとそうでないのとがあり、富める者もいれば貧しい者もいて、それらを差別し、排除するのは当然のこと、という考え方が根底にあったのは間違いないことだろう。
話はハンガリーの旅に戻って、夜、というか夕方4時からは、バルトーク国立コンサートホールでの「ブダペスト・ワーグナー・デイズ」。
ワーグナーの「ニーベルングの指環(リング)」4部作が前日から上演されていて、2日目の「ワルキューレ」のチケットを日本で取っておいたので出かけていく。
ワーグナーといえば毎年夏にドイツのバイロイトで開催されワーグナーの大作が上演される「バイロイト音楽祭」が有名だが、そのバイロイトに迫りつつある新しいワーグナーの聖地が「ブダペスト・ワーグナー・デイズ」なのだそうだ。
アダム・フィッシャー総監督のもと2006年にはじまり、ワーグナーを専門とするオペラ歌手たちが出演して毎年6月に開催されていて、世界中の音楽ファン、とりわけワグネリアンの間では一大イベントとなっているという。
今年、6月20日から23日まで4日間にわたり上演された「ニーベルングの指環」はワーグナーが26年にわたる歳月をかけてつくり上げたオペラ史上最大の作品といわれる。台本も、ドイツの叙事詩「ニーベルゲンの歌」や北欧神話を題材にしてワーグナー自身が手がけた。
1日目「ラインの黄金」、2日目「ワルキューレ」、3日目「ジークフリート」、4日目「神々の黄昏」の4部からなり、上演に4日間、のべ約15時間を要する。
「ワルキューレ」も、午後4時から始まって終わったのは9時すぎ。
あまりに長いからか、途中1時間ぐらいの休みが入っていた。お客は途中、お酒を飲んだり食事に行ったりして、ゆっくりとワーグナーの音楽を楽しんでいるみたいだった。
出演は、Magnus Vigilius(ジークムント)、Jongmin Park(フンディング)、Johan Reuter (ウォータン)、Karine Babajanyan(ジークリンデ)、Irene Theorin(ブリュンヒルデ)ほか。オーケストラはハンガリー放送交響楽団。
ソリストたちはいずれも名の知れた“ワーグナー歌い”らしく、力強く美しく迫力十分。ドイツ語なので意味はわからないものの聴きいるうちに物語の世界に引き込まれていった。
翌日の帰国の日は庶民の台所、レヘル市場に寄ったりして空港へ。
ブダペストからカタール航空便でドーハで乗り換え、ドーハ発QR4850便で羽田へ。カタール航空便となっているが実際にはJALが運航していてJL50便。
このドーハ発JL50便のベテラン女性客室乗務員のホスピタリティあふれる対応がとてもすばらしく、快適な旅となった。エコノミークラスなのに、まるでファーストクラスに乗っているような気分。結局、長時間を飛行機の中ですごす上で大事なのは、ゆったりとした空間とか、リッチなサービスではなく、客室乗務員のさりげないけど心のこもった応対なのだなと強く思った。
(終わり)