善福寺公園めぐり

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「夕霧名残の正月」覚え書

今年の歌舞伎座正月公演の第2部で、亡くなった坂田藤十郎を偲んで息子の中村鴈治郎扇雀らが「夕霧名残の正月」を上演するというので正月休みを利用して調べてみたら、この作品の誕生には興味深いエピソードがいろいろあることがわかった。

中でも、江戸時代の浄瑠璃・歌舞伎作者、近松門左衛門の最初の歌舞伎作品が、この「夕霧名残の正月」だった可能性がある。このとき近松門左衛門は25歳。そういえば、彼はよく“東洋のシェイクスピア”といわれるが、シェイクスピアがデビュー作である「ヘンリー六世」の第一部を書いたのがやはり25歳のとき。奇しくも同じ年齢から劇作をスタートさせていることになる。

そこで「夕霧名残の正月」について少し調べたのでその覚え書きを記すことにする。

 

〈和事の始まり「夕霧名残の正月」〉

「夕霧名残の正月」は今から340年あまり前の1678年(延宝6年)2月3日、大坂(「大阪」は明治のはじめまでは「大坂」だった)道頓堀の荒木与次兵衛座にて初演。歌舞伎役者になってまだ1年目の初代坂田藤十郎(1647‐1709年)が藤屋伊左衛門役を演じた。これが「和事(わごと)の始まり」といわれる。

この芝居が大当たりとなり、藤十郎の人気はウナギのぼり。一方、江戸歌舞伎で初代市川団十郎が名乗りを上げたのが、その3年前の1675年。やがて東の荒事(あらごと)の市川団十郎、西の和事の坂田藤十郎と並び称されるようになる。

 

歌舞伎や文楽でよく上演される「夕霧もの」と呼ばれる芝居は「廓文章」始めいくつかあるが、その原型とされるのがこの芝居。しかし、当時の台本は残っていないため、現在上演される「夕霧名残の正月」は古い資料などをもとに再構成したものとなっている。

 

あらすじは・・・。

大坂・新町の扇屋抱えの遊女夕霧が病によってこの世を去り、きょうはは四十九日。扇屋で法要の支度をしていると、夕霧の恋人・藤屋伊左衛門がやって来る。放蕩の末に借金を抱え、家を勘当された伊左衛門は、夕霧の死に目にも会うことができなかった。伊左衛門がその死を悼むところへ、在りし日の夕霧が姿を現し・・・。

 

台本は残っていないものの、初演の作者は近松門左衛門、というより正確には近松門左衛門を名乗る前の本名(正確には通称)の杉森平馬とわかっている。のちに近松門左衛門は初代坂田藤十郎とタッグを組み、彼のためにいくつもの作品を書いているが、藤十郎のための最初の作品がこの「夕霧名残の正月」だったのではないか。

 

〈三大太夫の一人、夕霧太夫

大阪・新町の遊女、夕霧太夫は実在の人物だ。京・島原の吉野太夫、江戸・吉原の高尾太夫と並ぶ三大太夫の一人だったという。

生まれは京で、父は林光政といって、林家は代々嵯峨大覚寺出入りの宮大工だったというが、幼少のころ京の遊郭・島原に身売り奉公に出され、置屋である扇屋お抱えの遊女となる。扇屋は1672年(寛文12)、夕霧らを連れて発展著しい大坂の遊郭・新町へ引っ越すが、すでに島原で夕霧の名は高く、彼女が大坂へ下るというので評判となり、大坂の人はきょうかあすかと淀川べりで夕霧が乗る船を待ったという。

 

歌川国貞の浮世絵「古今名婦伝 新町の夕霧」より。制作年は1861年文久元年)。f:id:macchi105:20210104134606j:plain

夕霧は井原西鶴の「好色一代男」(1682年(天和2年))にも登場していて、それによれば、色白で物腰よく、芸事に優れ、酒も強く、魚屋や八百屋とも口をきき、それでも卑しくなく、浮気らしく見せても賢く、情け深いが溺れることはなく、客が命を捨てる覚悟で口説いても道理を説いて遠ざかる、というような人で、「神代このかた、また類なき御傾城の鏡」と絶賛している。

しかも、太夫と呼ばれるからには普通の遊女とはまるで違う。遊女の頂点に立つだけでなく、太夫とは「正五位」の別称であるからして十万石の大名に相当し、帝の宴席にも呼ばれる身分だったという(昇殿を許されたのは五位以上だった)。

当然、太夫と遊ぶ相手も、島原は公家貴族、新町は大分限者や大店の主人たちだったという。

 

ところが、夕霧は大坂に移ってからわずか6年後の1678年(延宝6)1月6日に病気で亡くなってしまう。1652年生まれともいわれるから、まだ20代半ばだった。

 

〈杉森平馬のちの近松門左衛門

夕霧の死はたちまち大坂中に知れ渡ったのだろう、大坂ミナミ道頓堀の歌舞伎芝居・荒木与次兵衛座は、夕霧が亡くなった翌月の2月、早々と「夕霧名残の正月」という追善興行を打つ。このとき作者として白羽の矢が立ったのが、当時25歳で台本書きの駆け出しだった杉森平馬、のちの近松門左衛門だった。

 

近松門左衛門は本名を杉森信盛、通称平馬といって、武門の家系の次男として越前福井に生まれた。杉森家は詩歌に秀でた家系で、若くして「徒然草」を学び、歌も詠んだという。ただし、父は浪人となり、平馬が15歳のころに京に移り住んだ。平馬はそこでしばらく公家の名門に仕えた。その間に得た知識や教養がのちの作劇にも生かされているようだ。

さらに、この先どう生きるのかを悩み、出家しようと思ったのか、20歳のときから3年間を大津市にある天台宗近松寺(ごんしょうじ)ですごしている。のちに平馬が近松姓を名乗るのもここでの滞在に由来するといわれている。

この寺は音曲始め諸芸の祖神を祀るとされる関蝉丸神社との関係が深く、芸能者がよく出入りしていた。そうした縁があったゆえか、平馬、のちの近松門左衛門のデビュー作とされているのが、近松寺滞在時に書かれた古浄瑠璃の「花山院后諍(かざんのいんきさきあらそい)」という作品で、1673年(寛文13年)正月に上演されたとされている。

このとき平馬21歳。何と、こんな若いときから近松門左衛門浄瑠璃作品をつくっていたというのだから驚きだ。

 

しかし、これには異説があって、「花山院后諍」は近松門左衛門の作ではない、との説もある。ハテ、どっちなのか?

国立国会図書館に古文書として浄瑠璃本「花山院后諍」が所蔵されていて、「国立国会図書館デジタルコレクション」で公開されているが、「解題/抄録」には次のように書かれている。

花山天皇の女御2人の后争いから、天皇の出家、藤壺女御の怨霊事と安倍晴明の活躍などが描かれた古浄瑠璃作品。元は寛文13年(1673)正月刊、井上播磨少掾の語り物だが、本書は後半を改変した宇治加賀掾の語り本である」

井上播磨少掾(1632年ごろ‐1685年)は大坂の古浄瑠璃太夫。播磨風と呼ばれる語り口で義太夫の源流となった人。井上播磨少掾から大きな影響を受け、弟子ともいわれるのが宇治加賀掾(1635‐1711年)。やはり古浄瑠璃の一派の嘉太夫節を語る太夫であり、のちに義太夫節の祖である竹本義太夫にも多大な影響を与えている。古浄瑠璃と今日に伝わる義太夫節との橋渡しの役割を果たしたのが宇治加賀掾であり、竹本義太夫は井上播磨少掾の孫弟子ということになる。

ちなみに掾(じょう)も少掾(しょうじょう)も宮中あるいは宮家より芸人・職人に与えられる称号のことで、江戸時代中期以降は特に義太夫太夫に与えられるようになった。近年では終戦直後の1947年に秩父宮家より掾位を受けた豊竹山城少掾が有名だ。

 

平馬が近松寺に滞在していたころから、井上播磨少掾宇治加賀掾近松寺に出入りしていて、3人は親しい間柄だったのではないか。井上播磨少掾宇治加賀掾も、声は飛びきりよくて名演奏者ではあっても、文才があったかどうかは疑わしい。そこで、平馬の才能を早くから見抜き、自分たちが語る浄瑠璃の台本をすでにこのころから平馬に書かせていたのではないだろうか。

1804年に刊行された「竹本豊竹浄瑠璃譜」の中の「諸事聞書往来 竹本芝居之部」に近松門左衛門の系譜が載っていて、次の記述がある。

「(近松門左衛門は)近松寺にての出家を嫌い、京都にくらし居りしを、・・・井上播磨の浄瑠璃を好み所々を修行し・・・」

このことからも、すでに近松寺にいたころから井上播磨少掾とも知り合っていて、「花山院后諍」の作者となった可能性は大いにあるといえるだろう。

近松寺滞在中にほかにも浄瑠璃作品をいくつか書いていて、次第に関係を深めていったのが宇治加賀掾だったのではないか。

加賀掾は当初は賀太夫を名乗り、1675年(延宝3)、四条河原で宇治座を旗揚げし、大評判をとったという。その後、嘉太夫を名のり、1677年には加賀掾を受領している。

加賀掾が京で宇治座を旗揚げしたころから平馬もこれに加わっていて、このとき平馬23歳。加賀掾のもとで修行を続けながら新作浄瑠璃づくりに励むようになっていったようだ。

 

〈和事の始祖、初代坂田藤十郎

加賀掾と昵懇の間柄にあったのが藤十郎だった。

京の座元だった坂田市左衛門(藤右衛門とも)の子として生まれ、1676年(延宝4)京の万太夫座で初舞台。万太夫浄瑠璃太夫で、1669年(寛文9)芝居の興行権を許され、四条河原で万太夫座を旗揚げした。当時、このあたりには7つの芝居小屋があったそうで、加賀掾の宇治座もそのひとつだっただろう。

 

藤十郎が万太夫座で初舞台を踏んだ翌年の1月、大坂・新町で一世を風靡していた夕霧が亡くなり、夕霧をヒロインにして追善興行を打とうと動いたのが道頓堀の芝居小屋、荒木与次兵衛座だった。

道頓堀は5つもの芝居小屋が建ち並ぶ芝居町で、五座の櫓(やぐら)が立っていたので櫓町とも称されたという。今も道頓堀を中心にミナミには人形浄瑠璃国立文楽劇場、歌舞伎の松竹座、演芸では角座やなんばグランド花月などがある。

 

荒木与次兵衛座の座元は、京での坂田藤十郎の評判を熟知していたに違いない。宇治座の加賀掾とも懇意にしていたのだろう。あるいは、坂田藤十郎のほうから夕霧の追善興行を持ちかけたのかもしれない。何しろ夕霧が亡くなった翌月に「夕霧名残の正月」と題する追善興行を打つのだから、とにかく急がなければ、というので、戯曲の作者として名指しされたのが平馬だった。

藤十郎は平馬作による「夕霧名残の正月」で夕霧の恋仲の若旦那・伊左衛門を見事に演じ、たちまち大評判となった。伊左衛門役は彼の当たり役となり、この年だけで4回繰り返し上演され、さらに続編が一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌、十七回忌と続いたという。

 

藤十郎の評判は、戯曲作者・平馬の評判でもあった。

やがて平馬は加賀掾の弟子でもあった竹本義太夫の元で戯曲づくりを始め、1683年(天和3)、曽我兄弟の仇討ちの後日談を描いた「世継曽我」でも評判をとり、1686年(貞享3)竹本座での「佐々木大鑑」で、初めて平馬改め近松門左衛門を名乗るようになったという。

 

今日の歌舞伎文楽があるのも、始めに「夕霧名残の正月」ありき、といえるかもしれない。