善福寺公園めぐり

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冥途の飛脚 勘十郎・忠兵衛、勘彌・梅川にホロリ

国立劇場小劇場での2月文楽公演は、勘十郎見たさに第3部の「冥途の飛脚」へ。

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前回行ったとき、客席は歌舞伎座と同じ席を前後左右に空けて市松模様みたいにしてコロナ対策を行っていたが、きのうは1列に2つ席を続けて1つ席を空けてというふうに変わっていた。最前列と太夫が座る盆回しの前が空けてあるのは従前通り。

 

全三巻のうち上演されたのは「淡路町の段」「封印切の段」それに「道行相合かご」。

太夫・三味線は小住太夫・清丈、織太夫・宗助(淡路町)、千歳太夫・富助(封印切)ほか。人形は勘十郎の忠兵衛、勘彌の梅川ほか。

勘十郎の忠兵衛はさすがのうまさ。勘彌の梅川もよかった。特に忠兵衛を転落一歩手前で思い止まらせようとする梅川の「くどき」の場面。思わずホロリと涙が出て、千歳太夫浄瑠璃もいつもの声を張り上げるだけでなく情がこもっていて、三味線と合わせ太夫と人形との三位一体とはこのことか。

目の前に、舞台ではなく300年前の大坂・新町の廓の情景が広がっていて、梅川忠兵衛の悲劇を目の当たりにしているようだった。

 

近松門左衛門の代表作の1つ。初演は正徳元年(1711)、門左衛門59歳のとき。

大金を動かす飛脚問屋の養子・忠兵衛が遊女・梅川と恋に落ち、店で預かっていた御用金の封印を切り、梅川を身請けしてしまう。封印を切ってその金を流用すれば公金横領となり打ち首獄門の大罪。2人は手に手を取って逃げるが・・・。

 

この物語には悪人は登場しない。すべて善人ばかりだ。それなのになぜこんな悲劇になってしまうのか――。

 

物語は・・・。

大坂・新町の遊女梅川と馴染んだ飛脚問屋亀屋の忠兵衛は、梅川を田舎客と競り合って、友人八右衛門から預かった50両を身請けの手付金に流用。八右衛門は、地に頭を擦りつけての忠兵衛の懇願に応え、善意で返済の猶予を与える。

忠兵衛のことを心配した八右衛門は、梅川との恋に溺れた忠兵衛がこれ以上ハメを外すことのないようにとの親切心から、茶店で遊んでいた遊女たちの前で忠兵衛の窮状を暴露して、寄りつかせないようにしてくれと頼むが、それをたまたま戸口で立ち聞きしたのが忠兵衛だった。

八右衛門の気持ちなど知らない忠兵衛、男の面目をつぶされたとカッと頭に血がのぼり、懐に持っていた武家の屋敷に届けるはずの300両の封印を切って、その金で八右衛門の金を返し梅川を身請けしてしまう。

自分が身請けされた金が公金横領の金と知り梅川は驚き、忠兵衛もわなわなと震え出すが、もはやこうなったら2人で死ぬか逃げるしかないと、忠兵衛は梅川を連れて生まれ故郷である奈良の新口村に向かっていく。

 

近松門左衛門作のこの作品は歌舞伎でも「恋飛脚大和往来」と改作されて上演されているが、原作では友人思いの善人の八右衛門が、歌舞伎では梅川に横恋慕する悪人という設定になっている。

勧善懲悪にすることで忠兵衛への同情心をかき立てて観客受けをねらった改作だろうが、原作のほうが人物描写がリアルだし、今日にも通じる誰もが陥りやすい人間の弱さを描いていて、実際にあった事件を元に描いているので時事性もあり、松本清張の社会派ミステリーみたいな趣もある。さすが近松門左衛門

 

結局のところ、忠兵衛が転落していくのは誰が悪いのでもない、悪いのは忠兵衛の心の弱さ、すぐに頭に血が上ってしまう気の短さ、ヘンな男のメンツなのだ。

だが、そうとわかっていても、見ているうちになぜかそんなダメ人間・忠兵衛がいとおしくなる。それはなぜか。忠兵衛が梅川をどれほど愛しているかがわかるからだ。

 

手にした300両という大金を、そのまま届けるべきところ(武家屋敷)に持っていこうか、それとも自分が身請けてしくれるのを待つ梅川のところに行こうかと、行きつ戻りつ逡巡する「羽織落とし」で有名な場面では、「ひょっとしてあれは自分では?」と忠兵衛に自分を重ねて見てしまう。

 

梅川のくどきのセリフも胸に迫る。

「大坂の浜に立っても、あなた一人は養って、男に苦労はかけないから堪忍しておくれ」と、短気は損気と涙ながらに訴える梅川。

「大坂の浜に立つ」とは、ムシロ1枚持って川端で客を引く最低辺の遊女になるということである。誰のせいかといえば私のせいなのだから、どんなに落ちぶれたっていい、だからどうか気持ちを静めて、と訴えてても、目先の恥と、男のメンツしか頭にない忠兵衛はガマンならなかったのである。

 

茶屋に集まっていた遊女の前で、禿がかつて新町にいた夕霧太夫の物語を今の自分たちに重ね合わせて三味線を弾きながら語る浄瑠璃の文句がいい。

「傾城に誠はなしと世の人は言うけれど、それはみんなひがごと(僻言)、恋を知らない人の言葉です。誠も嘘も元は1つ。命を投げ打って誠を尽くしても、男のほうから便りもなくなり遠ざかっていけば、どんなにこちらが思っていても、傾城の身ではどうにもならない。思わぬ人に身請けされ、思う人にかけた誓いも嘘となる。

はじめはただ偽りの、仕事だからと逢う人も、逢っているうちにこの人こそ頼りと思うようになれば、はじめの嘘もみな誠。恋路に嘘も誠もあるものか。縁のあるのが誠です」

何て一途な思い。近松門左衛門作の浄瑠璃「遊君三世相」(1686年)に出てくるもので、門左衛門が34歳のときにつくった浄瑠璃の一説という。

 

歌舞伎や人形浄瑠璃の多くがそうであるように、この話も実話にもとづくもの。

実説によれば、駆け落ちした忠兵衛と梅川は捕らえられて、忠兵衛は千日前の刑場で処刑。梅川は生き延びて、江州矢橋(滋賀県草津市矢橋町)の十王堂で50有余年の懺悔の日々を送り、近くにある浄土宗清浄寺に葬られたと伝えられている。

奈良県橿原市新口町の善福寺本堂の前には忠兵衛の供養墓がある。墓は「南無阿弥陀仏」と刻まれ、追善のため後世に建てられたものといわれる。

また、清淨寺には梅川の墓があり、享年八十三 梅室妙覚信女、と刻まれているという。