善福寺公園めぐり

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田中一村展 アダンの海辺

千葉市美術館で5日から始まった「田中一村展‐千葉市美術館収蔵全作品」を観る(2月28日まで)。

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待ちきれなくて初日に行く。f:id:macchi105:20210105180217j:plain

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去年の10月、宮島達男の個展を観に同美術館を訪れたとき、田中一村展を1月に開催すると知り、これはぜひとも行かねば、と待っていたもの。

もう何十年も前になるが、ある人から「生涯に観るべき日本画3点」を教えられた。長谷川等伯の「松林図屏風」、菱田春草の「落葉(おちば)」、そして田中一村の「アダンの海辺」だった。

「松林図屏風」と「落葉」は観ることが叶ったが、最後に残っていたのが田中一村の「アダンの海辺」だった。

 

3人とも、どちらかというと日本画の本流から外れた人だ。

長谷川等伯は長谷川一門を率いて狩野永徳らの狩野一門と競ったが、天才画家だった息子・久蔵の死や、政治の舞台が京から江戸に移るとともに画壇の本流からは外れていった。ようやく江戸幕府に認められることになり、家康や秀忠との謁見が実ろうとした矢先に没し、大黒柱を失った長谷川一門はやがて途絶えることになる。

 

菱田春草横山大観や下村観山とともに岡倉天心の門下で「朦朧体」を武器に明治期の日本画の革新に貢献したが、36歳の若さで病のため亡くなった。

春草が生きている当時、彼の絵は「こんなのは日本画ではない」と画壇から酷評され、描いた絵は売れずに困窮を極めたという。

こんなエピソードがある。春草がまだ30歳になったばかりのころ、当時人気があった画家が数名の芸妓を引き連れて訪ねてきた。春草の画室でしばらく話し、春草が「ちょっと失礼」と部屋を出ていったので何気なく後ろ向きに立てかけてあった作品を1枚1枚見たところ、その見事さに驚愕した。

これだけの才能がありながら困窮を極める春草を見るにつけ、自分などが芸妓を連れて贅沢三昧をしているのが恥ずかしくなってきた。画家は、外で待っていた芸妓たちを追い返し、自分もすぐに東京に戻り、数カ月かけて描きあげた屏風絵を引き裂き、夜を徹して筆を走らせ、作品を描きなおした、という。

 

そして、田中一村(1908‐1977年)である。

彼の場合は「どちらかというと」どころか完全に画壇とは無縁の人だった。

1908年(明治41年)の生まれ。幼いころから絵を描いては神童といわれた。仏像の彫刻師だった父はその画才に歓喜し、周囲の期待の中で東京美術学校日本画科に入学。同級生には東山魁夷橋本明治らがいた。

しかし、中学のときに患った結核の再発と父の病気が重なり2カ月余りで退学。その後は独学で絵を勉強しながら、南画を描いて一家の生計を立てるようになったという。

やがて南画とは訣別し、自分の画風を世に問おうと39歳のとき、川端龍子が主催する青龍社の第1回展に出品した「白い花」が入選。この年、新たな出発を期して雅号を「一村」とし、翌年の第2回展にも「秋晴」「波」の2点を出品した。

だが、2点のうち「波」は入選したものの、自信作だった「秋晴」は落選してしまい、このことで龍子と衝突。他の1点の入選を辞退して青龍社を離れてしまう。

 

1953年の日展にも出品するも落選。このときの審査員には同級生だった東山魁夷がいた。

その後も日展院展に出品するもことごとく落選。中央画壇への絶望感を抱いた一村は、やがて画壇とは無縁の存在となる。千葉に20年住んだのち、南の島・奄美大島に移住することを決意したのは50歳のとき。それでも画家としての自負の念は増すばかりであり、このとき一村は画業10年計画なるものを立てた。「5年働いて絵を描く金を貯めて3年間描き、2年働いて個展の費用をつくり、千葉で個展を開く」というものだったという。

大島紬工場の染色工の仕事で生計を立てながら絵を描き続けたが、10年がすぎても個展は開催できなかった。働いては辞めて絵を描き、また働くということを繰り返しているうちに体調が悪化し、69歳のとき、夕食の準備中に心不全を起こし、一人孤独のまま急逝。無名の画家として生涯を終える。

彼の死から3年後の1980年3月、NHK の地方局のディレクターがローカル番組の取材のため名瀬港のダイバーの家に立ち寄ったとき、その家の壁に無造作に画びょうでとめられた1枚の魚のデッサンに目を奪われた。

田中一村という画家の絵です」と聞かされて、ディレクターの心が動かされた。

1984年、NHK教育テレビの「日曜美術館」で「黒潮の画譜~異端の画家・田中一村~」と題して全国に紹介され、大きな反響を呼んだ。無名だった一村はこの放送をきっかけに「孤高の天才画家」として一躍、有名になったのだった。

 

本展では同館所蔵の作品・資料をすべて公開。東京で神童と呼ばれた10歳代のころから、奄美で亡くなる前年に描いたものまで約130点の作品・資料について時代を追う形で展示されている。

 

しかし、何といっても圧巻は奄美で描かれた「アダンの海辺」である。

50 代になって奄美に移住してから、一村の絵は一変する。、亜熱帯の花鳥や風土を題材にした独特の日本画を生み出していくが、中でも傑作が「アダンの海辺」だ。

絹地に岩絵の具で描かれた日本画だが、足元の砂礫、さざ波の描写の見事さ。砂礫は一粒一粒緻密に描かれている。遠景に沸き立つ白い雲。そして、はるか遠くの金色の輝きは現世を超えて彼岸へと続く世界を表現しているようだ。

会場では、この作品を人に譲る段になって認めた一村の「添え状」が展示されてあったが、その中で一村はこう述べている。

「この絵の主目的は乱立する白雲と海浜の砂礫であって、これは成功したと信じております。何ゆえ無落款で置いたか(たしかに本図には落款がない)、それは絵に全精力を費やし果て、わずか五秒とはかからぬサインをする気力さえなく、やがて気力の充実したときにと思いながら今日になってしまった次第なのです」

この添え状には昭和52年(1977年)5月の日付がある。一村はこの絵は生涯手放さなかったといわれているが、昭和52年5月といえば一村が亡くなる4カ月前のことである。生活が困窮し、手放したくなくても売らざるを得なくなっていたのだろうか。

 

制作スタイルには鬼気せまるものがあり、それとも日本画家はみんなそうなのか?

一村は奄美にいるとき、そこで知り合った人にこう語っている。

「(日本画は線であること、岩絵の具を膠が乾燥する前に塗っていくこと、一気呵成に線を引かなければならないので極度の緊張と精神の集中を要するものなあることを述べたあと)絵かきは血圧が上がらなければ絵は描けません。まず左目で三時間画布を見つめます。そうしますと血圧が上がってまいりますので、一時間ぐらい氷で額を冷やします。それから右目でまた三時間画布を見つめます。やっと中心が決まりますので、点を打ちます」(NHK日曜美術館 黒潮の画家 田中一村作品集)より)

 

昭和49年正月の年賀状には近況をこう書いている。

「昨年から絵をかいて居ります。1年かかってたった三枚できただけです。今年も来年も絵の生活です」

大島紬工場の染色工として働いて貯めた資金で、彼は一心に絵を描いていたのだろう。

 

一村の自刻の落款の中には「飢駆我」と読めるものがある。

「飢え、我を駆る」とは、飢えをバネに自らの芸術を完成させたいということなのだろうか。

 

陶淵明の「乞食(こつじき)」という詩の冒頭に「飢駆我」という下りがあり、こう歌っている。

 

飢来駆我去 不知竟何之

 

(飢えが自分を駆りたてるが、どこに行くべきかもわからない)

 

一村は、絵を売って糊口をしのぐというのは矜持が許さず、ただひたすら描きたい絵を描き続けたかった。しかし、そのためにはギリギリの生活にならざるを得なかったし、ときに不本意ながらも人から救いの手を差しのべてもらうこともあっただろう。それは彼の心に重くのしかかるものがあり、だからこそまた一村はそうした恩に報いるためにも絵を描き続けるのだった。

「いったい自分はどこへ行くつもりなのか」

陶淵明の詩に似た境地に一村は立っていたのだろうか。