善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

最近読んだ本「噤みの家」「竹本義太夫伝 ハル、色」

サ・ガードナー「噤(つぐ)みの家」(訳・満園真木、小学館文庫)を読む。

原題「NEVER TELL」

3つの関係のないと思われた事件がやがて1つにつながっていく。

これだからミステリーはおもしろい。

 

ボストンの住宅街。高校の数学教師のイヴリンが家に帰ると、玄関のドアが開いている。不安にかられながら夫の仕事部屋にいくと、夫は射殺されていた。彼女は夫が見ていたパソコンの画面を見て衝動的に死んだ夫が握っていた銃を手にとり、パソコンに銃弾を何発も撃ち込んでしまう。やがて駆けつけた警察に逮捕される。

捜査を担当したボストン市警殺人課の部長刑事D・D・ウォレンは、イヴリンを知っていた。16年前、イヴリンが16歳だったとき、天才数学者でハーヴァード大学教授の父親を、ショットガンの扱いを誤る事故により死なせていたのだ。

ウォレンの秘密情報提供者にはフローラという若い女性がいたが、彼女は6年前、男に誘拐されて1年4カ月もの間、監禁されて凌辱を受け、FBIに救出された女性だった。

 

住宅街の射殺事件、16年前の誤射による天才数学者の死亡事故、6年前の誘拐監禁事件の被害者。これらがなぜ1つにつながっていくのか、その複雑に絡み合う糸をほぐしながら真相を追っていく物語。

 

本筋とは関係ないが、本書の冒頭におもしろい描写があった。

ボストンの住宅街の射殺事件で、その住宅の間取りが説明される。

家のつくりは若い家族向けにつくられていてシンプルで、左手の壁際には2階へ続く狭い階段があり、右には家の表に面した居間。細い廊下の先に小さなダイニングキッチン、その右にバスルーム、左には靴脱ぎスペースとキッチンからガレージに出るドア。

おや?靴脱ぎスペース?

たしかアメリカは土足社会で、靴を履いたまま家の中で生活しているはずでは?

 

たしかに基本的にはそうなのだが、最近は日本なんかと同じに家の中では靴を脱いで生活する人が増えているらしい。

ただし、アメリカの住宅のつくりは日本と違って外と家の中との境であるタタキ(三和土)のようなものはない。日本だと、ドアを開けるとタタキがあって、そこが靴を脱いで置いておくスペースであり、上がり框に置いてあるスリッパを履いたり、あるいは素足で家の中に入っていく。

一方、アメリカの住宅は玄関のドアを開ければそこはすなわち居間、あるいは来客スペース。金持ちだと玄関ホールがあるだろうが、いずれにしても靴を脱ぐところなんかない。

アメリカは車社会なので、ふだんはガレージに車を入れて、そこからキッチンに通じる裏口のドアを開けて家の中に入ることが多いようだが、もちろんそこもドアを開ければすぐ家の中だ。

ところが最近は、アメリカの人たちも土足のまま家の中に入っていくのは衛生的によくないと考える人が増えているらしくて、ドアの脇に靴脱ぎスペースをつくって、そこで靴を脱ぎ、室内履きの靴とかスリッパに履き替える人が増えているのだとか。

日本に旅行に行って靴を脱ぐ生活を知り、「こんなにいいものか」と見習う人が増えたという話も聞く。

アメリカは日本ほど高温多湿ではないから、靴を履いたままでもそれほど不快さはないかもしれないが、やっぱり家の中ではハダシがいいと、ようやく気づいたのかもしれない。

 

ついでにその前に読んでおもしろかった本。

岡本貴也「竹本義太夫伝 ハル、色」(幻冬舎)。

 

今からおよそ300年あまり前、人形浄瑠璃をまったく新しい境地に導いた義太夫節の開祖・竹本義太夫

百姓だった若者が、恋する女のために夢を追い、仲間とともに七転八倒しながら「新浄瑠璃」なる芸術を作り上げたドラマチックな人生を描いた一代記。

 

題名にある「ハル、色」とは、床本(ゆかほん)に書かれた音の高低や音色を示す記号のこと。

浄瑠璃の台本を「床本」といって、そこには太夫が語る(浄瑠璃は「歌う」ではなく「語る」)詞章(ししょう、文章)が勘亭流と呼ばれる独特の太文字で縦に書かれていて、文字の右側には語りの目安となる「朱(しゅ)」とよばれる旋律や強弱などを示した記号が朱色や黒で書き込まれている。

「ハル」は張りのある音、「色」は感情のこもった音のことであり、ほかに「ウ」は浮き上がったような音、「上」や「中」は音の高さを、それぞれあらわしているという。

 

竹本義太夫は本名を五郎兵衛といって、慶安4年(1651年)に摂津国天王寺村の農家に生まれた。

幼いころから父親の農業を手伝い、天王寺名産のカブづくなどに精を出していたが、畑の東の崖下には「徳屋」という当時有名な料亭があった。五郎兵衛はとても大きな声が自慢で、その料亭から繰り返し漏れてくる浄瑠璃を聞き覚えた五郎兵衛は、畑仕事の合間に、それを真似て語るのを何よりの楽しみとしていたという。

徳屋の主人・清水理兵衛(きよみずりへい)は、大坂(昔、大阪は大坂といっていた)の浄瑠璃界の第一人者、井上播磨掾(いのうえはりまじょう)の直弟子という人物だった。

ある日、五郎兵衛が畑で大声を張り上げて浄瑠璃を語っていると、それが理兵衛の耳に入った。五郎兵衛の持つ天性の美声に驚いた理兵衛は、彼を自分の弟子にして浄瑠璃を本格的に修業させることにした。

これが義太夫節創始者竹本義太夫のそもそもの始まりだった。

その後、浄瑠璃義太夫節として発展し、義太夫節の語りによって繰り広げられる人形浄瑠璃文楽)として、今の私たちを楽しませてくれている。

 

以下、語りたいことは多々あれど、文楽と沖縄との関係についてもひとこといっておきたい。

 

古来、日本だけでなく世界の各地で「謡(うたい)」の文化があり、もともとそれは神に捧げる祈りであっただろう。日本では、仏教が伝来すると僧侶が仏教の教えを節をつけて語る「説教節」も、「謡」を起源としたものだったに違いない。

能楽平安時代の芸能である「散楽(あるいは申楽、猿楽)」に始まるといわれているが、その根幹にあるのも、やはり「謡」だったろう。

説教節がさらに芸能化し歌謡化していったのが、琵琶法師が奏でる琵琶に合わせた「平家物語」などの「語り物」だった。

「謡」は義太夫節の元となる浄瑠璃にとっても根幹と考えられていて、一時期、竹本義太夫の師匠となる浄瑠璃語りの宇治加賀掾は「浄瑠璃に師匠なし、ただ謡を親と心得べし」と語っている。

 

一方、室町時代末期に、沖縄から伝わったものがあった。

三線(さんしん)だ。

14世紀末、独立国家として栄えていた琉球王国に中国大陸から三絃(さんげん)なる楽器がもたらされ、これが三線となって普及していった。とくに三線は武士のたしなみと推奨され、武家の床の間には刀ではなく三線が置かれていたという。

この三線が日本にもたらされて三味線となった。

三味線の登場により「語り物」は急速に発達していき、数ある演目のなかでも「浄瑠璃姫」という物語が人気を博し、いつしか三味線を使った語り物は「浄瑠璃」と呼ばれるようになっていった。

浄瑠璃にはさまざまなものがあり、江戸では常磐津や清元、新内などの流派が生まれたが、大坂で浄瑠璃として人気を集めたのが人形浄瑠璃で使われる義太夫節だった。

竹本義太夫が、近松門左衛門作の「出世景清」を語ったことで、彼以前の浄瑠璃古浄瑠璃と呼ばれ、彼の浄瑠璃は新浄瑠璃と呼ばれた。さらに近松作の「曽根崎心中」は、それまでの武士の勇ましい活躍などを描いた「時代物」と違って、市井で起こった実際の事件を題材に脚色を加えて町人社会の世相や風俗を赤裸々に描き出した「世話物」の最初の作品だった。

 

沖縄の三線がなければ、今日私たちは「曽根崎心中」を観ることもできなかったかもしれない。