善福寺公園めぐり

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團十郎襲名披露 十一月吉例顔見世大歌舞伎

東京・東銀座の歌舞伎座で、十三代目市川團十郎白猿襲名披露の「十一月吉例顔見世大歌舞伎」の夜の部。八代目市川新之助の初舞台でもある。

10月31日、11月1日の特別公演に続き、いよいよ團十郎の本格的なお披露目公演がスタートした。地方巡業を含めれば襲名披露興行はしばらく続くだろう。

 

客席に入ると、まず迎えてくれたのが團十郎家の定紋「三升(みます)」が柿色で描かれたいかにも成田屋らしい幕。

続いての祝幕は、世界的に活躍するアーティストの村上隆氏の作。

高さ7・1m、幅31・88mもの横長の巨大な幕に、歌舞伎十八番すべての演目が色鮮やかに描かれている。

夜の部は、歌舞伎十八番の内「矢の根(やのね)」、襲名披露口上のをあと歌舞伎十八番の内「助六由縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)」。

 

鎌倉時代の曽我十郎、五郎兄弟による敵討ちは「曽我物語」で江戸の人々によく知られていたが、歌舞伎にも“曽我物”と呼ばれる作品群があり、昼の部の「外郎売」に続いて「矢の根」「助六」ともに“曽我物”。

なぜ“曽我物”かといえば、曽我兄弟は鎌倉時代からの“国民的ヒーロー”であり、その人気にあやかって曽我兄弟を歌舞伎に取り入れたのが初代の市川團十郎だった。兄弟の仇討ちを「あっぱれ」と寿ぐというので昔から正月の歌舞伎の風物詩となっていた。

めでたい演目ゆえに、今回の團十郎襲名披露公演でも取り上げたのだろう。

 

「矢の根」は弟の五郎を主人公とした作品で、二代目團十郎が1729年(享保14年)に初めて演じて以来、生涯に4回もつとめた得意な役という。

本日は、曽我五郎に幸四郎、兄の十郎に巳之助。

 

襲名披露口上では、新團十郎が「にらみ」のサービス。

続く「助六由縁江戸桜」は、江戸一番の伊達男、花川戸助六が実は曽我五郎であった、という物語。

出演は、花川戸助六團十郎、三浦屋揚巻・菊之助、髭の意休・松緑、三浦屋白玉・梅枝、朝顔仙平・又五郎、福山かつぎ・新之助、通人里暁・鴈治郎、三浦屋女房・東蔵、曽我満江・魁春、白酒売新兵衛・梅玉、くわんぺら(かんぺら)門兵衛・仁左衛門ほか。

 

助六」は、絢爛豪華に繰り広げられる江戸歌舞伎の華といえる作品。

1713(正徳3)年、二代目の團十郎が初演。「荒事」で知られた團十郎が、荒事だけでなく和事風の男伊達を演じたというので評判になり、その後、改良されて四代目團十郎の時代の1761年(宝暦11)に現行のような「助六由縁江戸桜」となり今に継承されているという。

 

助六が舞台へさっそうとやってくる花道の「出端」のところで、舞台正面の御簾内で語られるのが河東節(かとうぶし)。

河東節は成田屋、つまり團十郎が演じる「助六」に限ってのことで、出演は「河東節十寸見会御連中」。

十寸見は「ますみ」と読む。文楽や歌舞伎の浄瑠璃はもともと上方発祥だが、1717年、それまでのいろいろな浄瑠璃から独自の芸風を取り入れて十寸見河東(ますみかとう)という人が始めた江戸生まれ江戸育ちの三味線音楽。

助六」は始めは上方の心中物語だったものを二代目團十郎が曽我物狂言と混ぜ合わせ、新しいヒーローとして助六を登場させたもの。四代目團十郎が1761年に舞台にかけたころから河東節が語られるようになったというから、260年もの歴史がある。

しかも、260年前のその当時から、演奏者はプロではなく贔屓の旦那衆や愛好家。今では邦楽の心得のある女性も加わって(というより出演者の名前をみるとみなさん女性だった)、日替わりで演奏しているという。お客さんが語ってくれるというので「御連中」というわけだ。

 

團十郎助六もいいが、仁左衛門ファンとしてはやっぱ仁左衛門のかんぺら門兵衛に注目。

助六の敵役で登場する鬚の意休の子分として出てくるのが、かんぺら門兵衛。助六にやっつけられる三枚目で情けない役。何で仁左衛門ほどの名優がこんな役をとも思うが、新團十郎の父親、十二代目團十郎の襲名披露公演(1985年4月)のときも夜の部は「助六」で、かんぺら門兵衛を昭和の名優で文化勲章受賞者の二代目尾上松緑が演じている。仁左衛門にとっては、肩の力を抜いて演じられる意外と“おいしい役”なのかもしれない。

それにしても、いったい、かんぺら門兵衛って何者?

鬚の意休は助六の馴染みの傾城・揚巻に横恋慕する武士で、助六(実は曽我五郎)が探す宝刀・友切丸を所持していたため最後は助六に切られてしまう。

その前に、湯上りの浴衣姿で頭に濡れ手拭を置いたかんぺら門兵衛遣り手(やりて)の女の首筋をとらえて出てくる。風呂に入って女郎(じょろう)たちに背を流させようとしたが、だれもこないので湯にのぼせたと怒っていて、新之助演じるうどん屋の福山かつぎと一悶着起こすが、そこで自分の名前の由来を説く長口上をぶつ。

「耳の穴をかっぽじって、よく聞けよ。これにござるが俺が親分、通俗三国志(つうぞくさんごくし)の利者(きけもの)、関羽(かんう)、字(あざな)は雲長(うんちょう)、髭(ひげ)から思いついて、髭の意休殿。その烏帽子子(えぼしご)に、関羽の関をとって、かんぺら門兵衛、ぜぜ(銭)持ち様だぞ」

中世の武家社会では男子が成人に達して元服を行う際に仮親を立て、当人の頭に烏帽子を被せてもらうのが通例とされていた。この仮親を烏帽子親と呼び、成人者を烏帽子子(えぼしご)と呼んだ。

意休はたしかに関羽髭と呼ばれるような長い鬚を生やしている。その関羽から「関」の字をもらって「かんぺら門兵衛」というわけだが、彼がまくしたてる長口上を江戸時代の観客はナルホドと聞いたのだろう。

はるか昔の江戸の人たちは間違いなく「三国志」を読んでいた、あるいは講釈かなんかで聞いて知っていたに違いない。

 

かんぺら門兵衛が助六からうどんを頭にかけられ、「ぎゃ~斬られたァ」と騒ぎ立てる場面があるが、このギャグはすでに1749年、二代目團十郎の3度目の助六のころからあったという。

270年前から続くギャグ芸を、仁左衛門はしっかりと伝えている。

 

しかも助六がかんぺら門兵衛にうどんをかけるとき、胡椒をたっぷり振りかけている。江戸時代は胡椒をかけてうどんを食べていたようで、近松門左衛門作の人形浄瑠璃「大経師昔暦」の中でも「本妻の悋気(りんき)と饂飩に胡椒はお定り」とあるように、うどんには胡椒がつきものだった。ただしこれは江戸前期までで、後期になると廃れたようで、大田南畝は「近頃まで市の温飩に胡椒の粉をつゝみておこせしが、今はなし」と書いている。

助六」が初演されたのは江戸時代前期のおわりのころ。食の歴史もわかる「助六」だった。