谷津矢車著の「絵ことば又兵衛」を読んで江戸時代前期の絵師、岩佐又兵衛に興味を持った。ちょうど今月12日から熱海のMOA美術館で「伝説の絵師 岩佐又兵衛 三大絵巻」展が開催されるというので、16日に見に行った。
MOA美術館は世界救世教の教祖・岡田茂吉が創立した美術館で、重要文化財4点、重要美術品3点を含む14点の又兵衛作品を所蔵していることで知られている。
又兵衛の古浄瑠璃絵巻群を代表する重文「山中常盤物語絵巻」、重文「浄瑠璃物語絵巻」、ならびに「堀江物語絵巻」の三絵巻を一堂に公開するのが今回の展覧会(4月20日まで)。
朝の新幹線で熱海へ。途中、車窓から帽子をかぶったような富士山が見えた。「笠雲」というらしい。
熱海駅からバスで7分ほど。山をどんどん登っていった高台にあり、眼下に熱海の海を一望できる絶景スポットでもある。
だからなのか、意外にも若い男女のカップルや女性のグループなどが多かった。
美術館は2017年にリニューアルされたそうで、エントランスから美術館入口までエスカレーターで登っていくが、アーチ型の壁面や天井は美しい色彩で空間デザインされている。
展覧会を見る前に能楽堂を拝見。
総檜造りの能舞台だそうで、檜の香りが漂っている。
ここから展示室へ。杉本博司のデザインで、木曽檜を用いた数寄屋の建築美を表現しているという。
展示室に入ると、まず目に飛び込んできたのが「山中常盤物語絵巻」。
紙本着色で、全12巻の巻物。各巻34・1㎝×12・39~12・63mあり、全長150・31mもある。
西洋でも東洋でも、本はもともと巻物の形をとっていただろう。日本の巻物ももともと中国から伝来したのだろうが、中国では南北朝時代の5世紀ごろから、紙を貼りつないで巻いていく巻子本(かんすぼん)=巻物が書物の形態となった。以後、唐代(7~10世紀)までは巻物が主流で、今でも本を1巻、2巻と数えるのはこの時代の名残。
巻物はやがて実用的に読むのが不便なため、折本(おりほん)や冊子本に取って代わられるが、それでも平安時代から江戸時代に至るまで、挿絵入りの巻物である絵巻物はすたれなかった。
平安時代から鎌倉時代にかけての絵巻物に「信貴山縁起絵巻」「伴大納言絵巻」「鳥獣戯画」などがあるが、絵巻物を手でたぐりながら画面を動かしていったほうが時系列の動きがよくわかるし、そこに登場する動物などがまるで生きているように、つまり動画のように描かれている。ひょっとして日本のアニメの原点はこの絵巻物にあるのでは?と思うほどだ。
「山中常盤物語絵巻」は、大阪夏の陣で豊臣家が滅んでから8年ほどがたった元和末年から寛永初年のころ、つまり1623年ごろから24年ごろにかけて越前藩主松平家のために描いたものとされているが、色鮮やかな色彩と金銀泥の装飾が施され、その保存状態のよさに驚かされた。
フラッシュをたかなければ写真撮影オーケーというのでカメラを構えるが、どうせガラス越しだから光が反射してよく見えないだろうと思ったらとんでもない。又兵衛絵巻の魅力の1つに、細部までゆるがせにしない丁寧な筆致と細密描写がある。リニューアルしたMOA美術館では、ガラスへの映り込みを気にすることなく低反射高透過ガラスによってディテールまでじっくりと鑑賞できるようになっていて、ガラスがあることなど全く感じずに鑑賞できた。
「山中常盤物語」は、義経説話にもとづく御伽草子(おとぎぞうし)系の物語で、奥州へ下った牛若を訪ねて都を旅立った母の常盤御前が、山中の宿で盗賊に殺され、牛若がその仇を討つという筋書き。
慶長・元和(1596~1624)・寛永(1624~44)にかけて、「山中常盤」は操(あやつり)浄瑠璃の演目の1つとして盛んに上演され、それを絵巻物化したのがこの絵巻であり、詞書も浄瑠璃の正本(テキスト)をそのまま使っている。
又兵衛が描いたといわれる絵巻群の中で、最も生気あふれる力強い作風のものとされているのが、この「山中常盤物語絵巻」だ。
浄瑠璃の歴史をみると、初期のころは琵琶を伴奏楽器として使ったり、扇拍子の素語りだったりしたらしいが、永禄(1558~1570)のころ、琉球から三線(さんしん)が伝来して一変。これを改良した三味線を伴奏に用いるようになってから新しい時代の音曲としての地位を確立する。つまり今日の文楽(人形浄瑠璃)があるのも沖縄の三線のおかげなのだ。
京の四条河原には小屋掛けの芝居小屋が次々とあらわれ、人気を博した。
岩佐又兵衛は若いころ、京で絵師として活動していた。きっと、どこかの芝居小屋で操浄瑠璃の「山中常盤物語」を見て、「これを何とか絵巻にしたい!」と心ときめき、身震いしたことだろう。
「山中常磐物語絵巻」の全12巻を積み上げるとこうなる。
(この写真は辻惟雄・山下裕二「血と笑いとエロスの絵師 岩佐又兵衛」トンボの本より)
平家討伐の軍を興すべく、奥州に下った齢十五の牛若。
都に残された母の常磐は、乳人の侍従とともに牛若に会うため旅に出る。
常磐・侍従の道行には、人々の暮らしぶりがこと細かに描かれている。
やがて、美濃の国山中(やまなか)の宿に着いたところで常磐は旅の疲れか、牛若恋しさのあまりか、病に倒れる。
6人の盗賊が夜半に宿を襲う。
賊は、常磐と侍従が身につけた小袖まで奪い取り、門外に去ろうとする。
肌を隠す小袖までもはぎ取られ、ゆもじ(腰巻き)1枚となった常磐が、せめて小袖1枚は残してほしい、それでなければ命もとってゆけ、と叫ぶと、憎い女だというので常磐の長い黒髪をくるくると巻きつけ、刀で突き刺す。
侍従が常磐を介抱していると、侍従までも殺される。
奥州にいた牛若は、胸騒ぎがしたため山中の宿の近くまでやってきていて、泊まった宿は前夜常磐が殺されたのと同じところだった。まどろんでいると枕許に常磐の霊があらわれ、敵討ちを頼む。
復讐を決意した牛若は、宿の部屋中に豪華な衣裳や金銀を並べて、大名が逗留していると思わせて仇がに襲ってくるのを待ち受ける。
案の定、賊どもが襲ってくると眠ったふり。
やがて飛び起きた牛若は、まず母を殺した男の首を打ち落とし、残る5人にも、霧の法で目をくらませ、小鷹の法で宙に飛び上がる。何しろ鞍馬山で天狗から兵法をさずかっただけに変幻自在の牛若丸。
首を飛ばされ、胴切りにされた盗賊どもの無残な死体。
再び奥州に戻った牛若。3年3カ月ののち、10万の大軍を率いて京に上るその先頭に、凛々しい牛若の姿があった。
続いては「浄瑠璃物語」。
浄瑠璃姫の門前で笛の音を響かせる牛若。
やがて十五夜の晩、邸内に入って浄瑠璃姫の寝所に牛若が近づいていくと、四方の障子には四季の絵が描かれてある。鳥の絵。
屋敷の庭には水車?まである。
田植えの風景まで描かれている。
浄瑠璃姫に言い寄る牛若。
詞書を読んでいて興味をそそられたのが「かれうびんなるこえをあげ」というところ(写真の真ん中の行)。
「かれうびん」とは「かりょうびん」ということで、漢字で書くと「迦陵頻」。
「迦陵頻伽」の略で、その意味は「美しい声のたとえ」という。
もともと仏教からきていて、極楽浄土にすみ、比類なき美声で鳴く想像上の鳥のこと。
浄瑠璃姫の声はそれほど美しいというわけなのだろう。
物語の終盤で浄瑠璃姫が烏天狗に乗って飛び立つ場面。何て極彩色。
又兵衛のほかの作品のうち、「柿本人麻呂図」と「紀貫之図」(いずれも部分)。
又兵衛の自画像。
又兵衛以外の作品では、国宝の野々村仁清「色絵藤花文茶壺」。
豊臣秀吉ゆかりの「黄金の茶室」。
昼は「茶の庭」内の「二條新町 そばの坊」へ。
海老かき揚げをつまみにビールと日本酒。
あい盛りそば(粗挽きのそばと挽き方の違う十割そばの二種盛り)。
帰りは小田原・新宿経由でのんびりと。