善福寺公園めぐり

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滑りのたうつ勘十郎の「女殺油地獄」+おでん割烹「稲垣」

国立劇場小劇場の「2月文楽公演」第三部「女殺油地獄」を観る。

東京は朝から大雪の日だったが、客席は埋まっていて、しかも女性が多い。文楽とか浄瑠璃というと“男の世界”かと思っていたが、女性が文楽の魅力を知るようになって今はむしろ逆転しているのかもしれない。

 

今月の文楽公演は、「初代国立劇場さよなら公演」の1つということで、近松門左衛門の3つの代表作を集めた「近松名作集」として、「心中天網島」「国性爺合戦」「女殺油地獄」の3作品が上演中。人形遣いの勘十郎見たさに選んだのが「女殺油地獄」だった。

 

23歳の放蕩息子、油屋を営む河内屋(かわちや)の次男・与兵衛が遊びの金を借りて返済に窮し、姉のように親しんでいた同じ油屋・豊島屋(てしまや)の女房で、27歳の3人の子持ちのお吉を殺して金を奪う顛末を描いた作品。

現代の青年にも通じる衝動的な狂気、さらには家族を描いた作品でもある。

 

何といっても見どころは最後の殺しの場面。

夜も更けた豊島屋。主人は出かけていて留守で、子どもたちを寝かしつけたお吉が一人でいるところに与兵衛がやってきて、金を貸してくれと頼む。

(与兵衛の人形と、人形遣い桐竹勘十郎国立劇場のHPより)

「不義になって貸してくだされ」

「ならぬというに、くどいくどい」

「くどう云うまい、貸してくだされ」

与兵衛が金貸しから借りたのは銀200匁。それを今夜中に返さないと借金は銀1貫匁(銀1000匁)、つまり5倍に膨れ上がるという。

銀200匁っていくらぐらいなのかというと、1両は銀60匁に相当するそうだから、銀200匁は3両とちょっと。1両を現代の価格で10万円としても30万円あまり。

その金欲しさに与兵衛は隠し持った脇差しでお吉を滅多刺しにして殺し、金庫にしまってあった銀500匁(現在のお金にして80万円あまり)を奪って逃走する。

「冥途の飛脚」の「封印切り」の梅川の身請け金は250両で、それがために梅川と忠兵衛は心中するのだが、1両10万円とすると2500万円。一方、30万円あまりのために殺人に走るのが今回の物語だ。

 

瀕死のお吉が必死になって油壺を倒し、床は油まみれ。逃げるお吉と、刀を振りかざして追いかける与兵衛が滑りながらくんずほぐれつとなる凄惨な殺しの場面は、人間にはできない人形ならではの表現。

歌舞伎では、本物の油の代わりにフノリを使って滑る雰囲気を出しているらしいが、文楽での人形の動きはホントに油で滑っている感じで、臨場感が半端ない。それも勘十郎の芸のすばらしさゆえだ。

ちなみに歌舞伎の世界では、あまりの激しい動きに、「女殺油地獄」の与兵衛を20歳の初役のときから得意にしていた仁左衛門が、2009年5月に一世一代で演じ、演じ納めをした。このとき仁左衛門65歳。まだまだこの役をやれるかと思ったが、とてもこれ以上できないと彼に思わせるほど、激しくて、若さが必要とされる役だったのだろう。

ついでにいえば黒澤明監督の映画「酔どれ天使」の大詰めで、ペンキに滑ってのたうち回りながら乱闘するシーンは「女殺油地獄」の殺しの場面がヒントになっているという。

 

女殺油地獄」の上演史もなかなか興味深い。

近松門左衛門(1653-1725年)のほとんど最晩年といっていい享保6年(1721年)7月に大坂(今の大阪)・竹本座で初演された。

前年の享保5年初演の「心中天網島」同様、実際に起こった殺人事件を劇化したとされる。

女殺油地獄」のとき近松は69歳。翌年4月初演の「心中宵庚申(しんじゅうよいごうしん)」が近松が書いた最後の世話物となる。この年から翌年にかけて、徳川幕府は「風紀を乱す」という理由から心中を扱った演劇や文学の禁止令を出す。当然、彼の代表作である「曽根崎心中」も「心中天網島」も上演できなくなる。

70歳となり体調も思わしくなかった近松は、以後、執筆活動をいったん休止し、後継者となる作者の育成に取り組んだという。近松の絶筆作品が享保9年(1724年)1月初演の「関八州繋馬(かんはっしゅうつなぎうま)」で、翌年の11月、72年の生涯を閉じる。

 

近松の作品は、「国性爺(こくせんや)合戦」(1715年)のように、実に17カ月もの驚異的な超ロングランを記録したものもあるが、幕府ににらまれる“心中もの”などは上演禁止になったり、数回やっただけで打ち切りになったものもあるらしい。

曽根崎心中」は、幕府からの禁止令により数回で上演禁止とされたが、それだけでなく「筋が単純である」という理由で明治になってからも再演されることはなかったという。

それでも「この世の名残、夜も名残」で始まる心中に向かう道行(みちゆき)の詞章(ししょう、文章)は美しく、名文として知られていた。しかし、舞台で復活したのは昭和の時代、それも戦後になってからだった。

1953年(昭和28年)、劇作家で歌舞伎狂言作者の宇野信夫が二代目中村雁治郎、中村扇雀(のちの四代目坂田藤十郎)のために脚色・演出して歌舞伎として復活。現在も宇野版の「曽根崎心中」が上演されている。

人形浄瑠璃での復活公演はさらにそのあとで、1955年(昭和30年)1月、近松の原文をカット・改変して、野澤松之輔の脚色・作曲により上演された。現在上演されている「曽根崎心中」は改変台本によるものだが、1990年(平成2年)には、近松の原文通りに「曽根崎心中」を上演する試みもなされている。

2011年8月にも、神奈川芸術劇場で、現代美術作家の杉本博司氏による「杉本文楽」として「曽根崎心中」が原文に近い形で復活上演されていて、豊竹嶋大夫(太夫)、鶴澤清治、(三味線)、吉田簑助(人形、徳兵衛)、桐竹勘十郎(人形、お初)らが出演していた。

 

では「心中もの」でもない「女殺油地獄」はどうだったかというと、何と、初演のたった1回限りの上演で、以後、上演されることはなかったという。

眠ったままだった「女殺油地獄」の復活上演は、ここでも歌舞伎が最初で、明治になってから坪内逍遥の「近松研究会」で取り上げられ、1909年(明治42年)に歌舞伎で再演され大絶賛されたという。

文楽人形浄瑠璃)での復活はそれからさらに年月を経た1952年(昭和27年)のこと。初演から230年以上の時をへて、八世竹澤弥七が「豊島屋油店の段」を新しく作曲し、素浄瑠璃としてNHKでラジオ放送された。その後、各段の復活が試みられ、1982年(昭和57年)2月に、通し狂言として復活上演された。

なぜ初演時、1回こっきりで再上演されなかったかというと、ひとつの説として「オイルマネー」の力が働いたからとの説があるらしい。

女殺油地獄」の舞台となったのは大坂の油屋であり、そこで起こった殺人事件。当時の大坂の油屋は全国的な販売網を持っていて、堂島の米商人に次ぐ勢いの大きな経済組織だったという。「女殺油地獄」の初演から3年後の享保9年(1724年)には、大坂から7万3651樽の油が出荷されていたというデータが残っている。これに関東周辺からの油を足して、年間だいたい10万樽前後だったというから、大坂の油屋組織の勢力の強さがわかる。

このため、油屋を舞台に油にまみれながら殺しをするという近松が描いた事件があまりにも凄惨であったため、油屋の組織が何らかの圧力をかけて、たった1回限りの上演で終わらせたのではないか、というわけだ。

 

舞台がはねたあとは、国立劇場近くのおでん割烹「稲垣」でイッパイ。

関東風、関西風、名古屋風の3種類のおでんを食べさせてくれる店。

外は冷たい雨。ビールのあとは日本酒をお燗してもらう。

つまみは、まずはお通しの菜の花。

寒ブリ、シメサバ。

シラウオのシソ揚げ。

小タマネギとガンモの関西風おでん。

牛すじは名古屋風。

雨の中、帰宅。帰り着くころにはやんでいた。