善福寺公園めぐり

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国立劇場さよなら文楽公演 菅原伝授手習鑑

今の国立劇場は老朽化による立て替えのため10月末に閉場するが、閉場前の最後となる「8・9月文楽公演」の第1部を観る。

第1部は「通し狂言 菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)」のうち、三段目(車曳の段、茶筅酒の段、喧嘩の段、訴訟の段、桜丸切腹の段)と、四段目の最初の段、天拝山の段。

「菅原伝授手習鑑」は、「義経千本桜」「仮名手本忠臣蔵」と並ぶ文楽三大名作の1つ。ときは平安時代、右大臣だった菅原道真が格上の左大臣藤原時平(ふじわらのしへい)の陰謀によって左遷された事件などに取材した全五段の時代物。

“初代国立劇場さよなら公演”というので5月公演と8・9月公演に分けて「菅原伝授手習鑑」が全段通しで上演されていて、文楽公演としてこの演目を全段通しで上演するのは約50年ぶりとか。

 

三段目の車曳の段から四段目の天拝山の段までは、かつて菅丞相(かんしょうじょう、菅原道真)の家来だった百姓の白太夫(しらたゆう)と、白太夫の息子で三つ子の梅王丸(うめおうまる)・松王丸(まつおうまる)・桜丸(さくらまる)とその家族を描いている。

三つ子のうち梅王丸は親に従い菅丞相の家来となり、桜丸は天皇の子である斎世親王(ときよしんのう)の家来となる。一方、もう一人の松王丸は藤原時平の牛飼い舎人(うしかいとねり)となったため、松王丸は桜丸・梅王丸とは敵対関係にあった。

(2011年2月国立劇場小劇場での喧嘩の段)

桜丸は斎世親王と菅丞相の養女・苅屋姫 (かりやひめ)との密会を手引きしたのが菅丞相失脚のきっかけとなったというので、自害。白太夫と梅王丸は、左遷された菅丞相のあとを追って九州・大宰府へと向かう。

(2011年2月国立劇場小劇場での桜丸切腹の段)

太夫桐竹勘十郎

 

大宰府にいた菅丞相は、藤原時平天皇を亡き者にして自分が天下をとろうとしていることを知る。憤怒の形相となった菅丞相は、太宰府を望む天拝山(てんぱいざん)に駆け登り、雷神となって京の都へと飛び去っていく。

(2002年5月国立劇場小劇場での天拝山の段)

菅丞相・吉田玉男(先代)梅王丸・吉田玉女(現・玉男)

 

義太夫を語る太夫は竹本千歳太夫、豊竹藤太夫ほか。三味線は豊澤富助、鶴澤清友ほか。人形は桐竹勘十郎吉田玉男ほか。

 

開演前には第一部の観劇者限定で「さよなら記念おたのしみトーク」として三味線の鶴澤燕三のトークがあった。

 

文楽の常打ち小屋としては、文楽発祥の地である大阪には国立文楽劇場があるが、東京は国立劇場小劇場が常打ち小屋だった。

国立劇場が開場したのは1966年11月。同月3日からは大劇場で歌舞伎の「菅原伝授手習鑑」が通し狂言として上演され、小劇場での第1回文楽公演は11月13日~27日まで、演目は「鬼一法眼三略巻」「寿式三番叟」「心中天網島」。

以来、大坂の国立文楽劇場と交代で隔月ごとに文楽公演が開催され、57年。今月24日までの今回の公演が最後となった。

新しい国立劇場が完成するには6年ほどかかり、その間は都内の各劇場を転々とするらしいが、長年親しんだ国立劇場での観劇ができないとなると何とも寂しい気がする。

しかし、そんな不安をはねのけるような気迫に満ちた舞台だった。

 

いつも思うし、今回観ていてもそう思ったが、文楽の時代物(文楽の影響を受けた歌舞伎の時代物も含めて)では、英雄豪傑の華々しい活躍の陰で、悲しく死んでいく庶民というか“普通の人々”の姿が描かれていて、観客の涙と共感を誘っている。

 

今回の「菅原伝授手習鑑」でも、聞かせどころ、見せどころは、百姓・白太夫のせがれで、三つ子の一人である「桜丸切腹の段」。

桜丸は斎世親王の舎人だったが、斎世親王と菅丞相の娘の苅屋姫の密会を手引きし、それが菅丞相失脚のきっかけをつくったというので、責任をとって切腹して果てる。

斎世親王と苅屋姫が相思相愛になったのは自分たちの意思によるもので、その仲を取り持ったからといって、2人から感謝されこそすれ非難される筋合いではない。それなのに詰め腹を切るみたいに切腹するなんて何て理不尽な、と思う。

結局、何ごとにおいても責任をとらされるのはエライ人ではなく下っ端であり、庶民の側なのである。

2018年に亡くなった竹本住太夫は、この段を稽古するとき、床本(台本)を読み返していても「かわいそうやな!」と泣けてくるという。

「『白太夫もかわいそうやけど、八重(桜丸の妻)もかわいそうや。桜丸もかわいそう。恋の取り持ちをしたばっかりにこんなことになってしもうて、気の毒やな』と思うて、私はいつも泣きます」と「文楽のこころを語る」(文春文庫所収)で述べている(もちろん稽古では泣いても「舞台では泣いたらあきません。お客さんを泣かさなあかんのですから」といっている)。

 

観ていてかわいそうで泣けてくるのは、桜丸の妻の八重。

彼女は梅王丸や松王丸の妻たちに比べると若くて幼い感じで、新婚なのか振り袖姿で頭(かしら)も娘の頭。料理するのも慣れてなくてすり鉢をひっくり返したり包丁で指を切ったりしながらもけなげに働いている。

なかなか夫が姿を見せないので心配する姿がいじらしく、ようやくあらわれたと思ったら、菅丞相に義理立てするため切腹するというので、取りすがって泣く。

嘆き悲しむ八重に白太夫

「定業(じょうごう)と諦めて腹切刀渡す親、思い切っておりゃ泣かぬ。そなたも泣きゃんな、ヤア」

八重も、思い入れをおなかに入れて「ア丶、アイ」。

「泣くない」「ア丶、アイ」「泣きやんない」「ア、アイ」「泣くない」「アイ」「泣くない」「アイ、アイ、アイ・・・」と、掛け合いながら涙に暮れる義父と嫁に観ているこちらももらい泣き。

文楽や歌舞伎は庶民がつくり出した文化。厳格な身分社会の中で、抑圧された人々の切なくてやり場のない思いが、このセリフに込められている。

 

休憩のあとは一転して、菅丞相が憤怒の形相となって天拝山頂で雷神になるダイナミックな場面。

しかし、ここでも作者は、殿上人である菅丞相を笑いで皮肉ることを忘れていない。

菅丞相が自分を左遷した時平の企みを知って憤怒の形相になる前の、のどかな田園の風景の中の一コマ。

やつれてヒゲぼうぼうとなった菅丞相が、白太夫がひく牛に乗って登場。菅丞相が乗る牛はすばらしいというので、白太夫は「天角地眼一黒直頭耳小歯違(てんかくじがんいちこくろくとうにしょうしごう)」と牛をほめる。

角は天に向かい、眼は地をにらみ、毛は黒く、頭は真っ直ぐで、耳は小さく、歯の合っている、というのが、いい牛に対するほめ言葉。

それを聞いた菅丞相は「一黒直頭耳小」を「一石六斗二升」と勘違いして「牛を買い取るときの値段か?」と素っ頓狂なことを聞く。

それを聞いて白太夫は笑いながら「天角地眼一黒直頭耳小歯違」の意味を説明して、「牛の講釈、モー、仕舞いでございまする」といい放つ。

天下国家を論ずる元右大臣であっても、いい牛をほめときの牛を飼う農家の符丁は知らない。庶民感覚とのズレを暗に示しているようにも聞こえた。

ちなみにこの「天角地眼一黒直頭(落語では鹿頭とも)耳小歯違」のくだりは、“庶民の芸術家”である落語家も気に入ったとみえて、与太郎噺の1つ「牛ほめ」に登場している。

この噺は一説には上方落語の「池田の牛ほめ」を江戸後期に初代の林屋正蔵(林家は5代から)が「牛の講釈」として移したとされている。天保4年(1833年)刊の正蔵著編「落噺笑富林(おとしばなしわらうはやし)」に「牛の講釈」が載っていて、それが現行の噺の元になったといわれる。

何と、学問の神様・菅原道真与太郎になっちゃってる。

「一黒直頭耳小歯違」というところを与太郎は「一石六斗二升四合八勺」とやって、「何だい、その八勺てえのは?」と聞かれて「これは、おまけだ」と答えて笑いを取っていた。