善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

井上ひさしの読書眼鏡

なぜかこのところ井上ひさしの本を読んでいる。というか死後になって生前書いた本が相次いで出版されているせいもあるが。
井上ひさしの読書眼鏡』(中央公論新社)を読む。

「読売新聞」の2001年1月28日付から04年4月25日付までの読書欄?に載ったエッセーを中心にまとめたもので、今年10月に出版された。
ほかに米原万里の1作1作についてのコメント(これは「米原万里展『ロシア語通訳から作家へ』図録に載ったもの)、「藤沢さんの日の光」と題する藤沢周平についてのエッセー(文春ムック『「蝉しぐれ』と藤沢周平の世界』)も所収。

井上ひさしが幅広い分野に興味を持っていたのがわかる。でもやはりコトバへの関心の強さは際立っているが。
「なるほど」と思う記述もいくつか。たとえば──。

「『研究社シェイクスピア辞典』によると、ウィリアム・アイアランド(1775~1835年)という人は、シェイクスピア崇拝者の父親のために、『ヘンリー二世』という歴史劇を「発見」し、父親も喜び、世間も大騒ぎとなったが、じつはその作品は、彼の贋作だったというのですからすごい」(2001年1月28日)

つまり、父親に読ませたいばっかりにホンモノそっくりのシェークスピアのニセモノ作品をつくったというわけだが、たしかにスゴイ。

細川護貞の『情報天皇に達せず』(上下二巻、昭和28年2月、磯部書房刊)
「1年前まで(2000年のことか)、古本屋ではこの書物に、『上下2冊で4500円』の値段がついていました。ところが今はその十分の一以下の『400円』です。……どうも今が古本の、絶好の買い時のようですよ」(2001年3月25日)

古本屋に行きたくなった。

憲兵だった父の遺したもの』(倉橋綾子著、高文研)の読後感。同書は、戦争の被害者でもあったが同時に加害者でもあった日本人としての父についてのドキュメンタリー。
「人はよくだまされていたといって逃げますが、しかし人はだまされたという自分の愚かさにはやはり責任を持たなければならない」(2002年5月26日)

ノーム・チョムスキーアメリカの言語学者・思想家)著『メディア・コントロール』(鈴木主税訳、集英社新書)の次の言葉。
「普通、国民は平和主義にかたむくものだ。第一次世界大戦のときもそうだった。一般の人びとは、わざわざ外国に進出して殺人や拷問をすることにしかるべき理由など見出せない。だから『こちらが』あおってやらなければならない。そして、国民をあおるには、国民を怯(おび)えさせることが必要だ」(2003年6月29日)

「こちらが」とは、国家であり、巨大マスコミだろう。

オーストラリアの首都キャンベラで、井上氏はある公立中学校を見学した。ちょうど数学の小試験の最中で、黒板には「ピタゴラスの定理を文章で説明しなさい」と大書してあった。
「数学というよりは英語の試験ですね」と井上氏がたずねると、先生はこう答えた。
母語としての英語がすべての基本ですからね。数学もじつは英語としておしえているのですよ」
つまり、数学や理科や歴史も、じつは母語を教えるためにあるという考え方に井上氏は感服し、次のようにいう。
母語を軽く扱っているのは、わたしたちの国くらいのものでしょう。母語の日本語もまだちゃんと使えない子どもに英語を教えようだなんて、とても正気とは思えません」
さらに井上氏は、「子どもは話すことによって学ぶ」という英国の義務教育を取り上げ、英国では、「よく聞きよく読まなければならないという哲学から、読書が奨励されている」と述べている。(2003年7月27日)

大江健三郎の『二百年の子供』についての書評。
井上氏によれば、作者のいう真の「新しい人」(しばしば大江氏が口にする言葉だが)とはどんな人か。
たとえば<……いまを生きているようでも、いわばさ、いまに溶けこんでる未来を生きている。過去だって、いまに生きる私らが未来にも足をかけているから、意味がある。思い出も、後悔すらも……>と考えている人。このことを云(い)うために、作者は木のうろというタイムマシンを発明したのです。そして、決定的なのは、<ひとり自立しているが協力し合いもする>という定義。

さらに井上氏は、「ここで必要になるのは一にも二にも言葉であり、わたしたちは言葉をはっきりと使って頭の中を整理することで自立する。また、他人と協力するにも、はっきりした言葉やものの言い方が大切です」と述べている。(2003年11月30日)

「自分の考えを持ち、自分の意見を言う」それは生きていく上で欠かせないことなのだ。それを子どもたちに教えるのが学校であり、家庭であり、社会なのだ。

ほかに井上氏は辞書のおもしろさについても述べているが、そういわれてみれば、私の座右の書は小学館の『日本国語大辞典第2版』である。