善福寺公園めぐり

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裁き、裁かれるべきものは? 井上ひさし「夢の泪」

東京・新宿の紀伊國屋サザンシアターTAKASHIMAYAで、こまつ座第149回公演による井上ひさし作「夢の泪(なみだ)」を観る。

今年は井上ひさし生誕90年、亡くなってから14年がたち、この4月9日は彼が亡くなった命日だ。

演出・栗山民也、出演・ラサール石井秋山菜津子瀬戸さおり、久保酎吉、粕谷吉洋、藤谷理子、板垣桃子、前田旺志郎、土屋佑壱、ピアノ演奏・朴勝哲。

音楽監督久米大作、美術・長田佳代子、照明・服部基、音響・井上正弘、振付・井手茂太、衣裳・前田文子ほかのスタッフ。

会場は満席で、おじさん・おばさんとともに若い人も多く来ていた。

初日の翌日だったためか演技がこなれてない感じもしたが、だいだん馴染んでくるだろう(東京公演は29日まで)。また、最初、ラサール石井の声がどうしても両津勘吉(アニメの「こちら葛飾区亀有公園前派出所」の主人公)の声に聞こえてきて困ったが、次第に弁護士・伊藤菊治になっていく。

 

本作は、井上ひさし新国立劇場のために書き下ろした「東京裁判三部作」の2作目として、2003年に上演されたもの。01年「夢の裂け目」、03年「夢の泪」、06年「夢の痂」と続いていて、1946年から1948年にかけて連合軍が戦争犯罪人として日本の政治家や軍人らを裁いた極東国際軍事裁判(略称・東京裁判)を、市井の人々の視点で描き、侵略戦争の真実を問い、本当に裁き、裁かれるべき者はだれなのかを問う作品。

初演から20年以上を経て、こまつ座としての初上演という。

 

1946年(昭和21年)4月、東京・新橋駅近くの焼け残りのビルの1階にある「新橋法律事務所」。弁護士・伊藤菊治(ラサール石井)は女性弁護士の草分けで腕利きの秋子(秋山菜津子)と結婚し、法律事務所での仕事に追われる日々を送っているが、彼の女性好きが原因で離婚寸前の状態でもあった。

そんなところに、秋子は東京裁判において A級戦犯として起訴された被告人で外務大臣だった松岡洋右の補佐弁護人になるよう依頼されて、事務所は大騒ぎ。菊治も、事務所の宣伝のため、とりわけ秋子との関係修復のためというので、勇んで補佐弁護人に加わることになるが・・・。

 

この作品で作者がいいたかったこと、それは登場人物たちのセリフの中にある。

菊治たちは、弁護を引き受けたはいいが被告からも国からも一銭の弁護料も出ないことを知り、街頭で市民たちから募金を募り始める。これに対して連合国総司令部の法務官・ビル小笠原から「国民が裁判に関心を持つと困る」との理由で街頭募金を禁止される。

ビルはいうのだ。

「国民が裁判に関心を持つと、天皇の戦争責任に国民の目が向いてしまう。天皇は裁かない。そう結論が出ているのですからね」

結局、弁護料はアメリカが払うことになり、秋子は検察側から弁護料をもらっての弁護に、茶番のにおいを感じ取るのだった。

東京裁判」と平行して、新橋の闇市をめぐる日本のやくざと在日朝鮮人のやくざとのなわばり争いが描かれるが、警察に訴えても、警察は日本のやくざの味方をするから我慢するしかないといわれ、朝鮮人の青年は、自分たちも含め辛酸をなめさせられている国民は日本から「捨てられた」のだと吐き捨てる。

朝鮮人の青年と恋仲となった菊治と秋子の娘、永子のセリフ。

「連合国に、というか人さまに裁いてもらっても仕方がないんじゃないかしら。日本人のことは、日本人が考えて、始末をつけるべきなのに、今は、捨てられたはずの私たちが、私たちを捨てた偉い人たちと一緒になって逃げているような気がする。東京裁判の被告席に座る人たちに、何もかも覆いかぶせて」

20年前に、井上ひさしが私たちに投げかけた言葉が今も重く響く。

 

本作は、井上ひさしならではの音楽劇でもある。

セリフの間に歌が挟まり、何となくミュージカルっぽいのだが、ミュージカルではない。

井上ひさしも「ミュージカルのように歌い上げてはいけない。歌手風ではなく、演技者として歌うこと」と役者に注文していたそうだ。

たしかに、コーラスのようにハモるところもあったが、歌はあくまでセリフの一部であり、歌いながらも役者たちがぶつかり合ってもいた。

特徴的だったのは、歌のときはミュージカルのようにハデな身ぶり手ぶりで情感を込めて歌うというより、どちらかというと直立不動だった。みんなで歌うときは斉唱のようだった。

おそらく井上ひさしは、ドイツの劇作家ベルトルト・ブレヒトの「異化効果」を本作でも試したのではないだろうか。

役者が登場人物に成りきって怒りや悲しみを表現し、それに観客が感情移入して共感を覚えるのが普通の芝居だが、そのようなことを「同化」として否定し、役者はあえて役にどっぷり漬かるのをやめて役から「異化」し、むしろ役者はそこで起こったことの目撃者として自分の演技を観客に提示する。すると観客もまた距離感を持ってその演技を見つめ、より深いところで真実を探ることができるというのだ。

セリフでそのまま思いのたけをぶちまけるのでなく、歌うことで、いわばセリフを「詠唱」というか「朗読」するようにすることで、客観化の役割を果たしているのだろうか。

こうした音楽劇を井上ひさしは「東京裁判三部作」の「夢の裂け目」から始めたというから、本作で2作目ということになる。

 

井上ひさしブレヒトの影響を受けているのがわかるのは、歌われる歌はすべて既存の楽曲に別の歌詞をつけているのだが、全15曲の劇中歌の中で、ブレヒトの音楽劇「三文オペラ」の作曲で知られるクルト・ヴァイルの曲が、「三文オペラ」など音楽劇で使われた3曲、ミュージカル作品から2曲、その他歌曲1曲で、全部で6曲も使われている。作詞はもちろん井上ひさしだ。

ヴァイルの曲は、聞いていてつい違和感を抱きやすい半音が多いのが特徴で、「異化効果」を演出するにはピッタリの曲なのだろう。

ほかには、井上ひさしNHKのテレビ人形劇「ひょっこりひょうたん島」で一緒だった宇野誠一郎の曲も多く使われていて、中でも、うっとりとして聞いたのが宇野作曲の「丘の上の桜の木あるいは丘の桜」。

原曲は「ひょっこりひょうたん島」で使われた曲というのだが、そういえば子どものころ、聞いたことがあるような・・・?

子どものころ、知らぬ間にいい曲を聞いて育ったんだな。