善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

井上ひさし 東慶寺花だより


井上ひさしが亡くなったのが2010年4月9日。その年の11月30日発行の小説。最近、文庫にもなった。
オール讀物』に1998年から10年5月号まで、10年以上にわたり掲載された連作短編集で、15の話がちりばめられている。

井上ひさしが亡くなったあと、仕事場(自宅?)には「東慶寺の本棚」と呼ばれる本棚が残されていた。そこにはタイトルだけでも70もある本がびっしりと並んでいたという。全集もあったから、冊数にすればかなり膨大だっただろう。
資料を丹念に読み込んだ上で執筆に取りかかるのを常としていたといわれる井上ひさしらしい。ずらりと並んだ参考文献のタイトルをながめるだけでも楽しい。
もしがんになってなかったら、連作小説はさらに続いていたかもしれない。

東慶寺は神奈川県の北鎌倉に実在し、江戸時代には「駆け込み寺」「縁切寺」と呼ばれ、女性を救済するための尼寺だった。
その門前にある御用宿の「柏屋」に居候する戯作者志願かつ医者見習いの信次郎が主人公の物語は、当然フィクション。

御用宿というのは、駆け込みをした女性や相手の男性の一時宿泊および事務処理処。女性や相手の男性から話を聞き、それをまとめた調書を東慶寺の寺役人に提出するのが役目だが、信次郎は調書づくりの手伝いをしていて、さまざまな夫婦の揉め事を見聞きする。
鎌倉の四季を背景に、必死の思いで寺に駆け込んでくる女たちの苦しみ、嘆き、喜びを描き、夫婦や家族の絆とは何かを、涙と笑いのオブラートに包みながら問いかけてくる作品である。

江戸時代は身分社会で、男より女の方がエライという社会だったから、妻は夫の所属物(まさに「慰安婦は必要だった」と公言して平気な橋下大阪市長と発想は同じ)で、離婚するには夫からの離縁状(三くだり半)が必要だった。
しかし、この離縁状は必ずしも夫が妻に一方的に突きつけるものではなく、離縁に際して「私と別れたからには以後だれとでも再婚して構いませんよ」と記した「再婚許可証」という性格も持っていた。

しかし、妻がいくら夫の暴力、不貞に苦しみ離婚を求めても離縁状を書いてくれないことがある。そんなときはどうしたかというと、救済策として尼寺への駆け込みがあり、そこで3年間辛抱するとようやく離婚が認められたという。
幕府公認の駆け込み寺(縁切寺)というのがあって、全国に2つしかなく、1つは上州(群馬県)新田郡(今の太田市)にある満徳寺、もう1つが相模国(神奈川県)鎌倉の東慶寺だった。

なぜ上州の片田舎の寺なのかというと、満徳寺は徳川氏の発祥の地にあり(徳川氏の先祖は新田氏)、このため徳川氏の帰依を得て、縁切りのためこの寺に入ったのが2代将軍徳川秀忠の娘・千姫千姫は7歳で豊臣秀頼と結婚し、正室として大坂城に入ったが、大阪夏の陣で秀頼は自刃。千姫は落城する大坂城から救出されたが秀頼の妻のまま。そこで縁切りのためこの寺に入り、翌年、本多忠刻と再婚。この出来事を縁に満徳寺縁切寺となったという。
一方、秀頼の側室が生んだ子どもに国松と奈阿姫(なあひめ)がいた。幕府は豊臣の血を根絶やしにしようと国松を六条河原で斬首。阿姫も処刑しようとしたが、千姫が自分の養女にして嘆願したため死をまぬがれ、出家して東慶寺に入った。出家後の名は天秀尼(てんしゅうに)。

天秀尼が東慶寺に入ってだいぶたったころ、会津藩主・加藤嘉成に仕えていた猪苗代城代・堀主水が、嘉成の死で藩主となった明成の藩政を批判して仲違いし、一族郎党300人を引き連れ藩を出奔するという事件があった。堀は高野山に逃げる一方、堀の妻子は高野山が女人禁制であったため東慶寺に駆け込んだ。
明成は高野山東慶寺に追手を差し向けて引き渡しを要求。高野山側はごたごたを恐れたかあっさりと追手の入山を許し堀は殺されるが、天秀尼が住持となっていた東慶寺は、男子禁制・女性保護をタテにきっぱりと拒否。なおも妻子の引き渡しを執拗に求める明成に対して、天秀尼は義母の千姫を通して将軍家光を動かし、会津40万石加藤家を改易に追いやった。

この事件を契機に東慶寺の駆け込み寺としての評判は江戸の庶民の間に知れ渡り、夫や主からの暴力などで苦しむ女性たちの駆込寺・縁切寺としての地位を確立するまでになったという。
そして天秀尼はこの事件が落着して2年後の正保2年(1645)、37歳の生涯を閉じた。

2つの寺が縁切寺として歴史を築いていく背景には、どうも「豊臣家の滅亡」が関係しているように思えてならない。
千姫豊臣秀吉の嫡男である秀頼の正室であり、天秀尼は秀吉直系でただ1人残った血縁者。2人が生き残るためには秀頼、つまりは豊臣家と縁を切る必要があり、そこで徳川幕府満徳寺東慶寺の2つの寺に縁切成就・女性保護の特別な権限を与えたのではないか。OKサインを出したのは孫思いの徳川家康だったのだろう。意外と人情味のある男だったのかもしれない。

あの時代、横暴な夫や男から妻や女を守り救済するという“縁切り特権”が認められたいわゆる“アジール(避難所)”は、世界中で日本の2つの寺しか存在しなかったという。

千姫にしろ天秀尼にしろ、戦国から江戸初期にかけての時代を女性の視点から見るとまた違った見方ができるかもしれない。