善福寺公園めぐり

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“奇想の絵師”描いた「絵ことば又兵衛」

谷津矢車「絵ことば又兵衛」(文藝春秋)を読む。

 

「浮世絵の祖」とか「奇想の絵師」とも呼ばれる江戸時代初期の絵師、岩佐又兵衛の幼少期から成熟期に至る姿を描いた長編小説。

岩佐又兵衛は実在の人物で、1578年(天正6年)の生まれ、1650年(慶安3年)没というから昨年は没後370年だった。

しかし、同時代か少し前に活躍した狩野永徳長谷川等伯などと比べ、岩佐又兵衛についてはナゾの部分が多くてあまり知られてこなかったのではないか。

風景だけでなく人物を生き生きと描いているのが特徴の「洛中洛外図屏風」は国宝に指定されているが、国宝指定は2016年と、つい最近のことだ。

近年、岩佐又兵衛についての研究が進展し、文化史的・美術史的重要性が再認識されたことでようやく国宝に指定されることになったのだという。

今も、岩佐又兵衛についてはまだまだわからないことが多いだけに、本作は彼がどんな人物だったかを知る上でも読む価値のあるものだった。

 

あらすじは・・・。

母のお葉とともに暮らす又兵衛は寺の下働きをしていたが、生来、吃音が激しく、ままならぬ日常を送っていた。そんなある日、寺の襖絵を描きに来た絵師・土佐光吉と出会い、絵を描く喜びを知る。

その後、自分の出自を知らぬ又兵衛は何者かに追われ京に移るが、新たに狩野派で学ぶ機会を得て、兄弟子でもあり師ともいえる狩野内膳と出会い、更なる絵の研鑽を積む。しかしある日、母は何者かに殺される。

その後も何とか絵の道で生きていた又兵衛だったが、実は自分の父は戦国武将の荒木村重であること、母だと思っていたお葉はもともと乳母で、彼女を殺した首謀者が村重だったことを知る。

母を想い、父を恨み、人と関わることも不得手な又兵衛にあるのは、絵だけだった――。

「又兵衛」という名前からくるイメージ、それに「奇想の絵師」と呼ばれることから豪放磊落な人物かと思ったら、本書を読むとかなり繊細で、生来の吃音に悩まされて劣等感を持ち続けた人物に描かれている。

たしかに又兵衛をモデルにした歌舞伎や文楽の「傾城反魂香」でも、登場する浮世又平は絵の腕前は天才的で正直者ではあるもののどこか頼りなく、妻のお徳のほうがよっぽどしっかりしている(そういえば小説でも妻の名はお徳だった)。

 

本書の作者は30代の若手気鋭の作家。文章は巧みで、一気に読ませる。

大学では歴史学を専攻していたそうで、登場人物もほとんど実在の人物で、かなり史実にもとづいた感じで書いているから、又兵衛が生きた時代背景がよくわかって歴史の勉強にもなる。

 

人と関わることが不得手だったという岩佐又兵衛だが、かなり波乱万丈の生き方をしたようで、父親の荒木村重からしてドラマチックな人生を送っている。

村重はもともと家臣の一人にすぎなかったが、下克上によって主家を乗っ取り、その後仕えていた織田信長にも弓を引いた上、妻子を捨てて毛利家に逃亡。怒り狂った信長は残った村重の家族や重臣たちを皆殺しにした。その殺され方は史書に残るほど陰惨なものだったというが、そんな中で乳母の機転によってただ一人生き残ったのが数え年2歳だった村重の息子の又兵衛だった。

村重は信長の死後も生き延びて、豊臣秀吉の時代になってからは大坂で茶人として復活し、千利休とも親交を持つ。その後も秀吉が出陣中に秀吉の悪口を言ったことが北政所に露顕したため処罰を恐れて出家し、命をつないだという。

 

父から見捨てられた形となった又兵衛は、吃音もあってかなり屈折した少年時代を送ったようだ。石山本願寺に保護されて成長し、やがて母方の岩佐姓を名乗り、最初に仕えたのが信長の息子・織田信雄だった。

信雄は「本能寺の変」での信長の死後、織田家当主になるチャンスがありながらこれを失し、秀吉に追従するも結局は改易になってしまう。又兵衛も主を失って浪人となり、京都で絵師として活動を始める。

次に御用絵師として仕えたのが徳川家康の孫にあたる福井藩主・松平忠直で、又兵衛40歳ぐらいのとき。

松平忠直という人も屈折した人生を歩んだ人で、江戸幕府2代将軍秀忠の兄である結城秀康の長男として生まれるも、家臣からは疎まれ、幕府からもいい扱いを受けず、その鬱憤解消のためか次第に酒色に走り、乱心乱行の果てに配流になってしまう。

それでも又兵衛は忠直の弟の忠昌の代になっても20年余を北の庄ですごし、江戸に移り住んで20年あまり活躍したあと、73歳で波乱に満ちた生涯を終えたという。

 

父には見捨てられ、仕えた大名はいずれも血筋は飛び抜けていいけれど、いやだからこそなのか、ダメ大名だったり、常軌を逸した人物だったりして、その影響を多少なりとも受けたのか又兵衛が描く絵もかなり独特なものだったようだ。

しかし、又兵衛の劇的なタッチとたくましい人間の表現は後世に残るものとなる。

有名なのは「洛中洛外図屏風」、それに「山中常盤物語絵巻」「豊国祭礼図屏風」など。

洛中洛外図屏風」は国宝に指定されているし、ほかの2作品も重要文化財となっている。

洛中洛外図屏風狩野永徳はじめ多くの絵師によって描かれているが、人々の生活をとらえた描写のユニークさにおいて、もっとも異彩を放つものといえる。

洛中洛外図屏風」にしても「山中常盤物語絵巻」や「豊国祭礼図屏風」でもそうだが、豊頰長頤(ほうぎょうちょうい)の人物表現はときにユーモラスな感じもする。

「豊頬長頤」とは豊かな頬と長い顎を意味するが、中世の大和絵で高貴な身分の人物を表現するときに用いられた。又兵衛はこれを誇張し、独自の表現スタイルをつくっていった。その意味で、又兵衛は伝統的な大和絵と近世絵画とをつなぐ役割を果たした画家といえるかもしれない。

ちなみに又兵衛の「洛中洛外図屏風」は、滋賀の舟木家に伝来したものなので「舟木本」とも呼ばれる。

 

「山中常盤物語絵巻」も、ありのままを描く又兵衛の生き生きとした力強い作風が見て取れる作品。

古浄瑠璃の正本(テキスト)を詞書とした絢爛豪華な絵巻だが、奥州へ下った牛若を訪ねて都を旅立った母の常盤御前が、山中の宿で盗賊に殺され、牛若がその仇を討つという筋書きで、12巻からな る全長150 メートルを超える長大な作品だ。

特に、常盤御前主従が夜盗にあって裸にむかれ惨殺されるシーンは、生々しくかつ痛々しく描かれ、その容赦のないリアリズムに圧倒される。

 

又兵衛が活躍していたころ、京・大坂では古浄瑠璃がはやっていて、又兵衛も熱心に聞いていたのだろう。

そういえば人形浄瑠璃や歌舞伎の作者・近松門左衛門も、もともと古浄瑠璃から出発した人だった。

 

「豊国祭礼図屏風」は豊臣秀吉の七回忌にあたる慶長9年(1604年)8月に盛大に行われた臨時大祭の光景を描いた作品。発注者は家康の孫の松平忠直といわれる。徳川の世に豊臣の祭礼を描くのは御法度のような気もするが、忠直はあえて又兵衛にこの絵を描かせた。彼は幕府に反抗的となり配流された人物。あえて壮大で熱気に満ちた豊国祭礼図を描かせることで幕府を精一杯皮肉ったのだろうか。

それに応えて又兵衛の筆致もすさまじく、無数の人々を華麗な彩色と力強いタッチで描き、群衆の狂騒と熱気を見事に表現している。

この中には傾寄者(かぶきもの)がケンカしているシーンがあるが、これは実は判じ絵で、豊臣方と徳川方が戦う大坂の陣とを重ね合わせて描いているのだという。徳川の世にあって今はない豊臣・徳川が対峙する様子を描くなど、ときの権力者に媚びない「奇想の絵師」だからこそ描ける世界なのかもしれない。