善福寺公園めぐり

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「平治物語絵巻 六波羅行幸巻」@国宝・東京国立博物館のすべて

東京・上野の東京国立博物館東博)で開催中の東博創立150年記念の特別展「国宝 東京国立博物館のすべて」を観に行く。

会期は12月11日までで、期間中に展示替えしながら東博が所蔵する89件の国宝のすべてが展示される。

絵画、書跡、工芸、考古そして刀剣と、各ジャンルを代表する至宝が集められていて、雪舟の「秋冬山水図」、長谷川等伯の「松林図屏風」、狩野永徳の「檜図屏風」、武人埴輪の代表作「埴輪 挂甲の武人」などなど、どれも必見の国宝ばかりで、ため息が出るほど。

その中で写真撮影が許されたのは平安時代12世紀の「金剛力士立像」と、江戸時代17世紀・菱川師宣の「見返り美人図」。

しかし、今回の特別展で一番見たかったのが「平治物語絵巻 六波羅行幸巻」。

制作年代は鎌倉時代の13世紀半ばごろといわれ、約9メートル50センチある六波羅行幸巻を全て広げた状態でじっくりと見ることができた。

13世紀半ばというから、1250年の作としても今から770年も昔。そんな時代の絵巻がよくもこれほど鮮やかに、美しい形で残っているものだと感心するとともに、生き生きとしていてドラマチックな描き方に目が釘付けになった。

 

平治物語絵巻」は、平安時代末期の平治元年(1159)、政治の実権をめぐる藤原通憲(みちのり、信西(しんぜい))と藤原信頼(のぶより)の争いが平清盛源義朝の武力抗争に発展した平治の乱を描いた合戦絵巻。

元々は複数巻にわたる大作で、「六波羅行幸巻」のほか、米ボストン美術館の「三条殿夜討巻」、静嘉堂文庫美術館の「信西巻」や、十数枚の断簡が現存している。

今回、公開されている「六波羅行幸巻」は、源氏方に幽閉された二条天皇が女装して内裏を密かに脱出し、清盛の六波羅邸へ迎え取られる場面を全四段で描いている。

屋台線がまっすぐに描かれ、公家や武士など表情豊かな登場人物たちの群像が生き生きと描かれている。当時最高の絵師集団によってこの絵巻が作られたといわれている。

詞書は、随所に波打ったような文字が散見され、この特徴的な「震え筆」の筆遣いから、鎌倉時代前期の公卿で書家の弘誓院教家(ぐぜいいんのりいえ、1194~1255)晩年の筆跡と考えられているという。

 

何より注目すべきは、幽閉されていた二条天皇が牛車に乗って脱出するとき、女房姿になって逃れる様子を描いているところだ。

牛車を止めて、前後の簾を持ち上げた6人のむくつけき武士たちが、首を伸ばして中をのぞき込んでいる。女房らしい人の着物と、長い髪の横顔が少しだけ見えるが、これが二条天皇だろう。

天皇が変装して、しかも女装して逃げる様子を絵にするなんて、天皇が現人神とされていた明治・大正・昭和の一時期、大日本帝国憲法下の軍国主義の日本だったら絶対にありえなかっただろう。

平安時代天皇は、何ともおおらかに、とても人間的に描かれていたものだと感心する。

 

保元の乱のあと、後白河天皇は退位して数え16歳の二条天皇に譲位し、上皇(のちの法皇)となって院政を強めていくが、その間に近臣や武士のあいだの権力争いが激しくなっていった。近臣の一人、藤原通憲信西)は平清盛と結び、もう一人の藤原信頼源義朝と結んで対立し、ついに内乱(平治の乱)へと発展していく。

平治元年(1159年)12月9日、清盛が熊野詣でに出かけて京を留守にしているスキをついて、信頼・義朝の軍勢は三条烏丸にある院の御所を急襲。御所に火を放ち、後白河上皇を幽閉する。通憲は奈良への逃亡中に見つかり斬首される。さらに信頼・義朝らは二条天皇を清涼殿の北側にある黒戸の御所に押し込め、クーデターはいったんは成功を収めたかにみえた。

ところが、清盛が熊野参詣を中止して急ぎ帰京すると、その軍勢が盛んになるのをみて寝返る者が多く出て、たちまち形勢逆転。

このとき、二条天皇側についていて密かに清盛と通じていた公卿の藤原経宗らは、二条天皇を女房姿にして、牛車で中宮(皇后)ともども内裏を脱出させ、清盛の六波羅邸に移す。

後白河上皇仁和寺へ逃れたので、信頼・義朝方はたちまち孤立してしまい、結局は清盛方の勝利で終わる。

信頼は六条河原で斬首され、義朝は東国へ逃れる途中、謀殺されるが、三男頼朝は伊豆に流罪となっため生きのび、のちに東国の武士団を率いて京に攻め上ってくることになる。

 

平治物語絵巻 六波羅行幸巻」の詞書は、その書き出しから女装した二条天皇の様子を生々しく伝えている。

主上六波羅行幸なる女房の姿をかりて御かづらめしかさなりたる御衣をたてまつる」

主上とは天皇のことで、「女房の姿をかりて」となっている。

これは絵巻の「六波羅行幸巻」の詞書だが、絵巻の元となった軍記物語の「平治物語」にはもっと詳しく書かれてあって、現代語訳だと次のようになっている。

主上二条天皇)は女房の装いをして、重ねた御衣を身にまとった。御車を出発させたところ、兵どもが怪しんだ。別当惟方が「上臈女房たちがお出になるのだぞ。別に支障はあるまい」といっても、兵どもはやはり不審に思って近づき、松明をかざして、弓の筈で御車の簾をかきあげて見たところ、二条院はご在位のはじめで、十七歳におなりであり、もともと美しいお顔だちでいらっしゃるが、このときは華やかな御衣を召して輝くばかりの女房に見えたので、問題なく通ることができた。中宮(皇后)も同乗なさっていたが、引張り出されてどんな目に遭うかと恐れて、御衣の裾の方にまとわれて伏していた。

 

平治物語絵巻 六波羅行幸巻」に描かれているのは、まさしく兵どもが簾をかき上げているところで、緊迫した場面が見事に表現されている。

絵巻の最後の方には、二条天皇が幽閉から逃れて脱出に成功したとの知らせを受けて、慌てふためく藤原信頼の様子が連続写真のように描かれている。知らせを受けて飛び上がって驚く信頼、次に駆け出す信頼、そして御簾の外に飛び出していく信頼と、まるで人物が動いているコマ撮りみたいで、現代の映画的手法のはしりのような表現の仕方に感服してしまった。