善福寺公園めぐり

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東博 空也上人と六波羅蜜寺展

ポカポカ陽気の3日の午前中。東京・上野の東京国立博物館東博)へ。f:id:macchi105:20220304161050j:plain

今年(2022年)トーハクは創立150年を迎える。10月にはメモリアルイヤーを記念した事業の1つとして「所蔵する国宝を全部見せます展」を開催するらしい(ただし、どうせ前期・後期に分けたりして、一度に全部見せます、なんて太っ腹なことはしてくれないだろうが)。

 

今回行ったのは開催中の「空也上人と六波羅蜜寺」展(5月8日まで)。

口から阿弥陀仏が現れる姿で知られる平安時代の僧・空也上人(903~972年)像をはじめとする空也上人ゆかりの六波羅蜜寺京都市東山区)の所蔵品を集めた特別展だ。f:id:macchi105:20220304161026j:plain

時間予約制なので、さほど人が多いわけでもなくゆったりと会場を見て回れる。

といっても本展は何部屋もあるわけではなく、1つの部屋に13の像が並んでいるだけだから、かなりこじんまりした展覧会。ほかに空也の追悼文である「空也上人誄(るい)」などの文書や丸瓦など。

目玉は何といっても木造の「空也上人立像」(像高117センチ)。

空也の死後200年以上が経った鎌倉時代に運慶の四男・康勝(こうしょう)がつくったとされる。

左手に鹿の骨でつくった鹿杖(ろくじょう)をついて小さく1歩足を踏み出した姿で、わずかに開いた口から小さな仏像が6体現れている。空也が唱えた「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」の声が阿弥陀如来の姿に変わった様子を表現しているという。

 

よく見ると口の中から針金が出ていて、6体の仏像はその針金に支えられている。

かねて疑問だったのは、あの時代に針金なんてあったのだろうか?ということ。

その点についての説明はなかったが、針の歴史は古く、最初は動物の骨とか角を細くして使っていただろうがやがて金属でつくられるようになり、各地に残る古墳時代の遺跡からは青銅や銅を細く削って作られた針金状の金属が多数出土しているという。

やがて現代と同じ強くて加工性に優れた鋼(はがね)製の針が生まれ、中国、朝鮮半島をへて日本に伝わったといわれている。奈良時代には金属をたたいて延ばす加工技術も確立していたから、装飾品や仏具などに針金が広く使われていたようだ。

空也上人の口から出ている針金は、鉄だと錆びるから鋼製のものだろうか、あるいは銅製か。

ただし、像の本体は康勝の手になるものだろうが、首から下げた鉦鼓や右手の鉦鼓を打つ撞木、左手の鹿杖、口から出る6体の阿弥陀立像は後補、 つまり後世につくられたものものだといわれる。

像が安置されていた六波羅蜜寺はたびたび火災に遭ったというから、本体は無事避難できても付属品などは失われたものが多かったのだろう。

 

小さくて、やせた空也上人の像。今にも動き出しそうに写実的に彫り込まれていて、まさに生きている姿そのままだ。着ているものも粗末な感じで、胸ははだけ、高僧のように絹などの織物なんかとは違ってかなりゴワゴワしているように見える。足元はというと履きつぶしたような草鞋から素足がはみ出している。いかにも庶民にやさしく南無阿弥陀仏を唱えた“市井の僧”という印象を受ける。

しかし、空也が実際にそんな姿でまちを歩いていたかというと、かなり疑問だ。

康勝は、空也を知っている人から話を聞いたとか、絵に描いた空也像を見たとかというのではなく、200年以上あとの京のまちで見た聖の姿から、おそらくこんな姿だったのではないかと想像してつくり上げたに違いない。

 

空也は市聖とも呼ばれて、まちを歩き回っては民衆に寄り添った親しみやすい僧として知られるが、貴族への影響力もかなりあったようだ。

天歴5年(948年)、49歳のときに六波羅蜜寺の前身である西光寺を建立した際は村上天皇の勅許を得ており、この年、本尊である十一面観音像、四天王立像造立供養を行う(いずれも六波羅蜜寺に現存し、四天王立像は今回の展覧会に出品)。また、応和3年(963年)、61歳のときにに鴨川の河原で僧600人を集めて大規模な大般若経供養を行ったときは、時の左大臣藤原実頼もやってきたと「日本略記」にある。

一説では彼は醍醐天皇の第二皇子ともいわれていて、「尊卑分脈」(室町時代初期までに完成した系図集)によれば仁明天皇の皇子・常康親王の子とされている(この説は年代的にやや無理があるらしい)から、高貴な出自なのかもしれない。

しかし、何とはや数え12歳ぐらいのころから優婆塞(うばそく、在家信者のこと)として諸国遍歴を始め、25歳のころ、出家して空也を名乗る。阿波や尾張、奥州にまで出かけていって修行を繰り返し、京に戻ったのは30歳をすぎてから。その間、道を直し、川に橋を架け、野に捨てられた屍があれば阿弥陀仏を唱えて供養するという生活をしていたらしい。

京の鴨川の東側の地に西光寺を建てたのも、そこが葬送地である鳥辺野の入口にあたるところだったからであり、死者の供養が目的だったのだろうか。

しかし、空也がこの地に西光寺を建立した理由としては別の見方もある。

鳥辺野には仁明天皇の妻・藤原沢子の墓である中尾陵や、一条天皇の妻・藤原定子の墓である鳥辺野陵など、平安時代の6人の皇后の墓がある。庶民の遺骸はそこらへんの野原に打ち捨てられ、鳥葬、風葬にされた(それで地名も鳥辺野)が、高貴な身分の場合は火葬されて遺骨は墓に収められた。

平安時代の歴代の天皇・皇后はいずれも藤原氏と関係が深い。ひょっとして空也は「尊卑分脈」にもあるごとく、天皇家摂関家とも深い関わりがあり、それでこの地に寺を建立したのかもしれない。

 

展覧会の会場で、空也上人立像と向かい合うように配されているのは、「薬師如来坐像」と4体の「四天王立像」。

四天王立像はどれも目を見開き、力強い立ち姿。

4体のうち増長天のみは13世紀の鎌倉時代の後補作だが、残りは10世紀の平安時代の作。ただし、持国天は東寺講堂にある像の模刻、と説明書きにある。

東寺は空海ゆかりの寺であり、講堂に安置されている立体曼陀羅と呼ばれる諸像は仁明天皇の時代の承和6年(839年)に開眼供養が行われている。東寺講堂の持国天を模した像が六波羅蜜寺に置かれたのは、仁明天皇の妻・藤原沢子の墓を同寺が守っているゆえなのかもしれない(天皇家神道だが、明治の始めまでは神仏習合)。

 

空也上人像を観たあとは、同じ建物(本館)で開催中の「日本美術の流れ」と題するコレクション展。

以下、おもしろかったもの(空也上人展は写真撮影禁止だが、こちらは撮影OK)。

 

埴輪「踊る人々」(古墳時代の6世紀)。f:id:macchi105:20220304161141j:plain

踊る男女とも呼ばれる特徴的な人物埴輪。双方とも下半分は復原したもの。大胆にデフォルメされた顔に、左手を挙げたポーズから剽軽に踊る人々を連想させるが、同じ古墳からは儀式に参列する人物を表したとみられる埴輪が多く出土しており、おそらく殯(もがり)などの葬送の場における歌舞の姿を写したものともみられる。

漫画「おそ松くん」のイヤミの“シェー”とは関係ない・・・。

 

千手観音菩薩坐像(南北朝時代・14世紀)と四天王立像(鎌倉時代・14世紀)。

左の四天王の腰のヒネリが見事。f:id:macchi105:20220304161203j:plain

トラボルタの「サタデー・ナイト・フィーバー」のポーズとは関係ない・・・。

怖い顔の四天王。f:id:macchi105:20220304161224j:plain

 

江戸時代の2人の絵師と画家の作品がおもしろかった。

ひとりは江戸時代後期の絵師・岸駒(がんく)。

恥ずかしながら今まで知らなかった絵師。

なかなか見事な「虎に波図屏風」に目が釘付け。f:id:macchi105:20220304161255j:plain

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文政6年(1823年)の作品。

岸駒は江戸後期に京都を中心に活躍した人。越中あるいは加賀の出身とされ、京に出て、有栖川宮や前田家に仕えるなどし、岸派の祖となった人物という。

虎の絵を得意としたことで知られるが、それまでのような“想像上の虎”ではなく、長崎を経由して実物の虎の頭蓋骨や脚4本を入手してそれをもとに解剖学的な研究を深め、絵にしたという。

震えるような運筆も岸駒の特徴。

 

もうひとり注目したのが亀田鵬斎という江戸時代の化政文政期の書家。

まるでのたくったような独特な草書の「蘭亭序屏風」。文政7年(1824年)の作品。f:id:macchi105:20220304161340j:plain

中国・東晋王羲之が蘭亭に名士を招いて曲水の宴を設け、詩酒に興じた。このときに成った詩集の序文「蘭亭序」を六曲一双の書にしたためたもの。

彼の書は、欧米人から「フライング・ダンス」と呼ばれて人気があったとか。

越後に旅したときに良寛と出会い、「鵬斎は越後がえりで字がくねり」という川柳が残されているという。

 

去年までに足かけ5年をかけた修理が終わった記念というので、日本最古の医学書「医心方(いしんぽう)」(国宝)の原本が展示されていた。

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祖本は永観2年(984年)に朝廷直属の医師・丹波康頼が撰述・編纂し朝廷に献上された。この祖本は失われたものの、平安時代12世紀の写本27巻を中心に全巻が国宝に指定されて東博に所蔵されている。ちなみに丹波康頼の子孫が亡くなった俳優の丹波哲郎

虫損、破損が甚だしく取り扱いも困難となっていたそうだが、修理によって見事によみがえっている。f:id:macchi105:20220304161436j:plain

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千年も前の書物が今に語りかけている。

 

午前中かけて東博を見て回り、ランチは東京芸大近くの「上野桜木 菜の花」という創作料理の店で。

前回来たとき見つけた店で、そのときおいしかったので今回で2回目。注文したのは前回と同じ「旬の魚のお茶漬け」。

前菜は、ご主人のふるさとらしく新潟・佐渡の自然栽培無農薬野菜でつくった小鉢。f:id:macchi105:20220304161535j:plain

1杯目はゴマだれ漬けの新鮮な魚(ブリやマグロなど)の刺身と味噌汁で佐渡産のご飯をいただいて、2杯目はお茶漬け。2度楽しめる。

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帰り道、上野駅まで歩く途中、芸大の奏楽堂前を通ったらフェンスの上にまん丸のスズメがとまっていた。f:id:macchi105:20220304161617j:plain

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のんびり日向ぼっこだろうか。