善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

窓を開けなくなった日本人 ユカを考える

渡辺光雄『窓を開けなくなった日本人』(農文協)を読む。

題名にひかれて手に取った本。
日本人は夕涼みをいつからしなくなったのか、日本の住まいに縁側を見かけなくなったのはなぜなのか、なぜ1年中窓を閉めきって開けなくなってしまったのか、など、戦後の住生活の急激な変化の中で日本人が何気なく変えてきてしまった住まい方を振り返り、これからの住まいのカタチを提案している。
筆者は岐阜大学名誉教授で、専門は住居学・建築学・都市計画。

読んでナルホドと思ったが、もっとおもしろかったのが巻末の付録(?)に付いていた「日本人とユカ」と題する渡辺氏と道具学研究家でGK道具学研究所所長の山口昌伴氏との対談。

山口氏は「日本人が床に畳を敷きつめるようになったのは間違い」という。
たしかに私たちにとって畳といえば部屋中に敷き詰めた「敷き詰め畳」が“当たり前”だ。
ところが、もともと畳は「置き敷き」で用いられていたという。つまり畳は家具として用いられていて、わかりやすくいえば雛祭りの雛壇のてっぺんの「置き畳」にお内裏さまが乗っているのを想像すればいいだろう。

山口氏によれば「畳」の語源は、座る場所として高貴な人に敷物を勧めるとき、薄い敷物では失礼と幾枚も折り重ねものを供したが、この折り重ねることを「畳む」といい、これが転じて「畳」となった。要するに畳は座るための道具だったというわけだ。

それが中世に入ると上流階級の屋敷ではどんどん横に畳を敷いていって、敷き詰め畳が主流となっていく。
しかし、畳が庶民の住宅に普及するのは明治になってからであり、敷きつめ畳が一般に普及するようになるのはようやく大正時代になってからで、とても新しいことなのだという。

だから、本来、畳める畳が日本人の生活には馴染んでいるのであり、カーペットにしても、これも本来は「畳める畳」の一種であるという。
ということは、もともと日本の住宅や住まい方に適しているのはフローリングの板床に座る生活、フロアライフであり、畳やカーペットは必要なときに用いればそれでいいということになる。

そういえばわが家は全室フローリングで畳の部屋はなく、「置き畳」を活用している。
基本的にフローリングに直接座る、つまり床座生活(フロアライフ)なので、フローリングの寝室にはベッドではなく寝るときだけ折り畳み式の畳を何枚か敷き、その上に布団を敷いているし、食事も大きめのテーブルのまわりに半畳ぐらいの畳を人数分置き、各自それに座って食べている。
なぜ床座かというと、そのほうが落ち着くからだ。座り疲れたら床の上にゴロンと横になる。それが心地よい。
当然、素足で、木の床の温もりが心をなごませる。
山口氏によれば、日本人は基本的に裸足であり、昔は足袋も履かなかったという。

渡辺氏によれば日本の住宅は高温多湿という気候風土により床下45㎝以上の「床面」を有する、世界でも珍しい形式の住宅、なんだそうだ。
地面より45㎝上の床を「上床(うわゆか)」といって、その上に座布団を敷いたりして座る生活をしている。

ところが、ほとんどの外国の「床」は土間、土足床(土・レンガ・コンクリートなど)で造られた冷たい床で、そんなところで座ろうなんて発想はない。
しかし、地面より高いところにある日本式の「上床」はこれから世界的にもっと広まるのではないか、と渡辺氏はいう。
欧米でも日本の上床のよさを生活に取り入れている人が出てきていて、「だから日本はもう一度ユカを見直せ」と述べている。

一方、山口氏は上床のことを高床と表現していて、こんなふうにいっている。

「高床というのはね、自然の大地に対してつくり出した道具としてのユカ、だと思うんです。たとえばテーブルは高いところに設けた台ですよね。テーブルの上にコーヒーカップやケーキの皿を置いている。これをテーブルの下のユカに置くと、コーヒーやケーキが不浄なものになったようなヘンな印象を受ける。テーブルの上に戻すと、安心して飮める、食べられる。高床の上に座るのはいわば広~いテーブルの上に座るのと同じで、ケーキの皿を尻つく平面に置いても穢(けが)れ感がない。高床は起居に対して万能のユカという道具なんです」

なるほど、日本人にとって床は座るところ、寝るところ、飲み食いするところであり、多彩に、そして複雑に、床を利用してきた歴史があるんだな。