金曜日に仕事で福岡へ。ついでだからと北九州で一泊し、市内を散歩して帰京。
金曜日朝、飛行機で福岡空港へ。あすにも緊急事態宣言という中、空席が目立つ。ビジネス客ばかりで浮かれた気分の観光客はほとんどいない感じ。
昼は、天神で途中下車したので福岡パルコB1の食堂街で食べようとウロウロ。見つけたのが「うどん武膳」という店。
壁に張られたポスターによると「豊前裏打ち会」というのに加盟してるらしく、同会は北九州市小倉南区を中心としたうどん麺を愛する人たちでつくられた組織のようだ。
トロロうどんと、トッピングで丸天を注文したが、出てきたうどんは透明感のある細い麺で、ツルツル・モチモチの食感が独特だった。
夕方、仕事を終えて今晩の宿がある北九州・小倉へJRで行こうと博多駅へ。
ところが駅改札口はやけに込んでいて、なぜかみんな殺気だってる? 昼すぎに鹿児島本線で架線事故があり、電車がいまだに動いてなくて、復旧の見通しも立ってないのだという。
しかし、新幹線は動いている。そこで急きょ、小倉まで新幹線で行くことにするが、すでにSUICAで改札口を入っていたため、新幹線の券売所で博多からの乗車券と特急券を買おうとしたら、そこでは特急券は買えても乗車券は買えない。SUICAも使えない。駅員に聞くと、乗車券はいったん改札口を出てから買わないとだめなんだとか。JR西日本とJR九州の縄張り問題でもあるのか、バカヤローといいたい気分をぐっと抑えて、何とか東京行きの「のぞみ」に乗車。たった1駅だが、在来線で行けば1時間以上かかるが新幹線だとわずか15分ほど。ラクチンな移動ではあった。
泊まったのは「アートホテル小倉ニュータガワ」
1916年(大正5年)創業の老舗ホテル。
明治のころに炭鉱王で貴族院議員だった山本貴三郎が建てた迎賓館と池泉回遊式日本庭園だったのをホテルとしてオープン、今日に至っている。
ホテルの向かいにあった「無法松之碑」。
小説「無法松の一生」の主人公、富島松五郎をたたえる石碑。架空の人物だが小倉の人々は無法松をこよなく愛しているのだろう。
夕食は、友人からいただいた「雲のうえ」という北九州を紹介するタウン誌に載っていた「万両」というすし屋へ。
ホテルからだと5、6分の近さ。
すし屋は何年ぶりだろう。カウンターに座り、まずはビール、そのあと日本酒。
このお店、コロナの影響からかコース料理しかやっていないとのことで、料理はおまかせ。
出てくる魚はどれも新鮮で、おいしい。
お通しに始まり刺身盛り、焼き魚、煮魚(たしかノドグロだった)、その後、にぎり寿司。
飲んだ日本酒は「鍋島」(佐賀)「若波」(福岡)「東一」(佐賀)。
翌日は、チェックアウト前に朝の散歩。
まずホテル内の庭園を1周。
ホテルの前を流れる川(紫川の支流の神獄川)に、何と、カワセミがやってきていた。
都会のど真ん中だが、カワセミがいるということはそれだけ水が清く、魚が泳いでいるということだろう。
近くではスズメが2羽で仲よくしていた。
「福者ディエゴ加賀山隼人」の碑があった。
加賀山隼人は10歳のときに洗礼を受けキリシタンとなるが、武士として細川忠興に仕え、小倉藩の家老にまで出世する。
この当時、豊前国(小倉・中津)では宣教師たちによるキリスト教の布教が盛んで、その数2000から2700人もの人たちが洗礼を受けてキリシタンになったといわれている。当時の人口比からするとかなりの信者数だ。小倉藩の人口6000人に対して2000人以上の信者がいたとの記録もある。
ところが徳川幕府がキリシタン禁制を始めると、忠興も隼人に対して再三棄教を迫るようになる。しかし、隼人は家老職を取り上げられ、家族ともども軟禁生活を強いられても神に従う道をえらび、ついに死罪を宣告される。
隼人は刑場に小舟で運ばれる間、静かに祈りと黙想に浸り、刑場に着くとイエス・マリアの名を5回唱え、斬首の刑に身を投じた。享年54だったという。
北九州の名物という「揚子江の豚まん」の本社工場が近くにあり、朝からやっている売店でアツアツを購入。
隣はドライブスルーの「質屋」だった。
向かいには変わったマンション。
その前をモノレールが走っていた。
コンビニでコーヒーを買って、ホテルに戻り豚まんで朝食。
とてもジューシーで皮もおいしかった。
ホテルをチェックアウトして旦過市場へ。
そもそも小倉に一泊しようと思い立ったのは、1カ月ほど前のNHKテレビ「小さな旅」(日曜日朝8時から放送)で旦過市場が紹介されていたからだった。
100年の歴史がある市場。鮮魚や青果、精肉、乾物や製菓、惣菜など食を中心とした120の店が軒を連ねていて、とても人情味あふれるような雰囲気の市場だった。老朽化のため、近く再整備が決まっているという。そうなると市場はどうなるのか、今も受け継がれている商いの心意気に触れたいと、仕事のついでといっては何だが、ここに来ようと思ったのだった。
市場を歩くと、どの店の人もにこやかで、自分が売る品物に自信を持っていた。それもそのはず。どれもおいしいものばかり。1軒1軒が個性的で、生き生きしていて、こういう市場の雰囲気こそが、絶やしてはいけない“街の風景”であり、“財産”なのではと思った。
旦過市場に続く「魚町銀天街」。日本で初めてのアーケード商店街という。
ここも小倉における商業の中心で、楽器や時計、着物に履物、お茶や雑貨、生鮮食品やお花、お土産まで何でも揃う活力あふれる一大商店街だ。
さらに歩いて行って、森鴎外の旧宅へ。
小倉は意外と狭い町みたいで、どこへでも歩いて行ける。
森鴎外は島根の津和野出身だが、鴎外37歳のときの1899年(明治32年)、陸軍第十二師団軍医部長として小倉に転勤。3年間を小倉ですごした。
現在、保存・公開されているのは始めの1年半すごした借家。明治30年ごろ建てられたもので、鷗外が去ってのち玄関や通り土間などがかなり改造されていたが、1981に市が買収し復元した。
鴎外の遺言書のレプリカがあった。
亡くなる3日前に鴎外が口述し、親友が筆受したもの。「墓には森林太郎墓の外一字も彫るべからず。死後の栄典は絶対にいらない」などと書かれてある。なおオリジナルは東京の文京区立森鴎外記念館が所蔵しているという。
鴎外の旧宅の前の通りは鴎外通りと呼ばれるが、昼食は、その鴎外通り沿い(鴎外の旧宅から数分のところ)の「田舎庵」小倉本店でウナギを食べる。
この店も昭和元年創業というから歴史が古い。
この店は、素材のよさはもちろんだが(天然により近い状態で特別に飼育したウナギを厳選しているという)、焼き方も独特で、ウナギに「火をたくさん食べさせる」独特の技術でウナギ本来の旨味を最大限に引き出し、皮目はパリッと中はふっくらと香ばしく焼き上げているのだとか。
たしかに、食べてみると皮パリで中はフックラの味。おいしかった!
昼食のあとは鴎外通りを元に戻り、紫川を渡って小倉城へ。
かつてここには陸軍第十二師団司令部があったというから、鴎外も毎日この道を通っていたことだろう。
小倉城を築城した細川氏の肥後移封のあと、領主となった小笠原家の別邸であった下屋敷跡を復元した文化施設で、大名の庭園とともに江戸時代の典型的な武家の書院が再現されている。
玄関の唐破風。
書院の広縁から見た池。
風と光を座敷の中にまで取り入れるための「無双欄間」。
4階部分よりより5階部分のほうが大きい天守閣の「唐造り(南蛮造り)」が特徴。この造り方は当時、全国唯一のめずらしいものだったという。
来る前に写真で見た天守閣の印象では「小さな城」というイメージだったが、実際はかなりデカイ。天守閣内の説明でも、1階部分の床面積は熊本城や姫路城より広くて西日本で最大。天守閣の高さ(28・7m)は全国ナンバー6で、5位の姫路城と比べても2・8mしか違わない。
石垣も立派。
清張ファンで清張作品は全部(あるいはそれに近いほど)読んでいる身としてはぜひとも訪れるべき施設。
44歳で「或る『小倉日記』伝」が芥川賞を受賞。やがて上京して練馬区関町に移住し、家族を呼び寄せる。練馬区関町の家は6畳1間と4畳半2間に8人家族が住んだという。
その後、練馬区上石神井に居を移し、さらに杉並区高井戸に自宅を新築し、そこに終生住む。
社会派推理小説の創始者であり、古代から現代史発掘などの功績も大きい。
清張の足跡がよくわかる展示に時間を忘れて見入るばかりだった。
復元された自宅玄関。
書庫。
午後3時40分すぎの電車で博多へ。そこから地下鉄で福岡空港。
空港内の魚料理の店(海幸空港店)で福岡の味を楽しむ。
ビールに日本酒もいろいろ飲んで、料理もいろいろ。
サバの刺身もあった(しめサバじゃなく)。
タケノコの刺身がなかなかの美味であった。
帰りの飛行機は行きよりも空いていて、定刻通りの運航だった。