四万十川近くの宿「民宿こんぴら いろり宿」で迎えた朝。
宿のまわりを散歩。
遠くの山々が朝もやの中にある。
きのうの夜、盛んに鳴いていたカエルがおとなしくしている。
変わったクモがいた。
コガネグモの仲間のようだ。
脚を伸ばす方向に沿ってX字状に網を張ることが多いのが特徴。
白い糸が重なった部分がアルファベットのWやMのように見えるので“英語が書けるクモ”ともいわれているとかいないとか。
川のほうに歩いていくと、カワセミ発見!
毎日散歩している善福寺公園では毎日のように見ているが、はるばる高知に来てまで出会えるとは。
何てウレシイ。
朝食は、ご飯がおいしくておかわりしてしまった。
チェックアウトして向かった先は、高知と愛媛の県境にある“雲の上の町”梼原(ゆすはら)町。
町面積の91%を森林が占め、標高1455mにもなる雄大な四国カルストに抱かれた自然豊かな山間の小さな町。
なぜここへ行こうと思ったかというと、この町は新国立競技場の設計でも知られる建築家の隈研吾氏設計の建物群が世界で一番集まっている場所だからだ。
梼原町と隈研吾氏との出会いは1987年にさかのぼるという。梼原公民館(現在のゆすはら座)の保存運動に関わっていた高知県在住の建築家に招かれて梼原町を訪れた隈氏は、木造建築の梼原公民館に感銘を受け、自身も保存活動に携わるようになった。
恐らくそのころ、彼は建築家として木造建築の可能性を模索していた時代ではなかっただろうか。実際、梼原町を“自分の原点”と語っていて、そこから梼原町の関係が始まり、梼原産の木材を使って雲の上のホテル(1994年、現在建替工事中)、梼原町総合庁舎(2006年)、雲の上のギャラリー(2010年)、まちの駅「ゆすはら」(2010年)、YURURIゆすはら(2018年)、雲の上の図書館(2018年)と、梼原町にさまざまな施設が生まれることになっていった。
四万十川源流の豊かな自然環境に育まれた梼原産の杉材をふんだんに使用した「梼原町総合庁舎」。
2階の町長室もガラス張りだ。
ゆすはら座(旧梼原公民館)
もともと1948年(昭和23年)に別の場所に建てられたもの。1995年(平成7年)現在地に移転復元された。
大正時代の和洋折衷様式を取り入れた建造物で、モダンな外形に花道のついた舞台、2階の桟敷席、天井の木目の美しさ、また、高知県下では唯一の木造りの芝居小屋で、芝居や歌舞伎、映画上映など住民の娯楽の殿堂「梼原公民館」として親しまれてきたという。
隈研吾氏の建築群をめぐる途中にあった掛橋和泉邸。
明治維新で活躍した梼原町の志士、掛橋和泉邸(別の場所にあったが、代々の庄屋跡地であり、旧梼原町役場跡地に移築された)
幕末には近隣の同志がよく立ち寄り時局を談じたと伝えられている。
近くには坂本龍馬が歩いたという「龍馬脱藩の道」があって、歴史をたどりながらのウォーキングコースになっているようだった。
YURURIゆすはら。
町の複合福祉施設。建物の外壁には梼原産の杉板が使われている。
梼原町立図書館(雲の上の図書館)。
建築には梼原産の木材を活用しており、1100年余の梼原独自の文化を保存・継承し情報の発信基地となることを目指して建設された。館内にはボルダリング設備やカフェが併設されている。
驚きだったのは、この図書館の居心地のよさ、本を探す楽しみを満喫できるよさだ。
入り口で靴を脱いで入館する。来館者は素足で木の床の感触を楽しんでほしいという思いからか。
館内に入ると、目に飛び込んでくるのが、まるで森の中のような風景。
日本古来から伝わる木組みの技術を生かした四叉菱格子(よんさひしごうし)と呼ばれる工法だそうで、1本1本の木に荷重を分散させることで耐震性を高めているという。
ゆるやかな勾配の階段は、千枚田を模しているのか。
このように、建物内部にふんだんに木材が使われ、それが人にやさしい雰囲気をつくっているのももちろんだが、手に取りたくなるような本の配置とか、分類の仕方がすばらしい。司書さんらスタッフたちの工夫のたまものだろう。
本の配置は「いろは48本棚めぐり」となっていて、たとえば「ゆすはら“いろは”ウォール」は、梼原から高知、四国、そして日本へ、自然・歴史・文化を辿りながら日本人とは何かまでを辿る長い本棚。
「い」は「梼原の風を感じる~風土・風習・風景」、「ろ」は「高知から四国へ~空海も龍馬も歩いた道」、「は」は「日本を今一度洗濯いたし申し候」、「に」は「“脱”ウォール~龍馬脱藩の町だからこそ」、「ほ」は「背のびコーナー~絵本を卒業したら」といった具合。
そうしたいかにも読みたくなりそうな分類が「ん」まで続いている。
「ココロとカラダ」のコーナーには相談窓口のパンフまで置いてあった。
図書館での楽しさを倍増させてくれるのが、フィギュアなど各種模型を作っている海洋堂のジオラマ。
図書館内の5カ所に海洋堂によるジオラマが作られていて、それぞれのテーマに沿った世界が展開されていて、日本のフィギュア文化を創出した海洋堂の技と本のコラボレーションを存分に楽しめる。
ジオラマにまわりの書架が映り込んでいる。
町の総合庁舎の模型もあった。
図書館の方に聞くと、前の町長と海洋堂の社長さんが知り合いで、特注品のジオラマが実現したのだとか。
マルシェ・ユスハラ。
この町は電線のない町でもある。
無電柱化事業によって地上に張りめぐらされた電線類がなくなり、美しい街並みとなっている。
昼食はメインストリートにあった無添加・インド家庭料理の店「BONGA」でカレーを食べる。
週替わりメニューの南インド風ポークカレーを注文。おいしいカレーだった。
スパイスとヨーグルトに漬け込んだチキンを蒸したチキンティッカもグーの味。
食後は四国カルストをめざし、途中、「雲の上のホテル」と「雲の上の温泉」を結ぶ連絡通路兼ミュージアム「雲の上のギャラリー」を見る。
雲の上のホテルは建替工事中だったので外観のみだったが、別名「木橋ミュージアム」。
もともと森のような建築物をつくり、梼原の森の中に溶け込ませたいという隈氏の思いから、雲の上のホテルに増築されたギャラリーという。
日本建築の軒を支える伝統工法「斗栱(ときょう)」をモチーフにしている。
.鉄骨柱と木質柱の支柱からスギ集成材の刎木(はねぎ)を迫り出させた「刎橋(はねばし)」という架構形式を採用した「やじろべえ型刎橋」構造で、世界にも類を見ない架構形式の建物デザインだそうだ。
近くで、アゲハチョウ(カラスアゲハかな)が細い口吻を伸ばしてアザミの蜜を吸っていた。
神在居(かんざいこ)の千枚田。
四国カルストに抱かれた町、梼原町は標高220~1455mという高低差があり、平地が少ないことから山の斜面を利用した農耕作が発達した。中でも神在居は田んぼが段々に重なっていることから千枚田と呼ばれた。先人たちが苦労して積み上げた石積みの田んぼで、住民たちはこの棚田を400年以上耕し続けてきたという。
梼原町を訪れた作家の司馬遼太郎は「耕して天に至る景観。万里の長城にも匹敵する」と称賛した。
しかし、農業の衰退により、雑草に覆われてしまった田んぼも少なくないようだ。
延々とゆるやかなカーブの多い坂道を登っていって、四国カルストに到着。
カルストとは、海底に堆積した石灰岩が地殻変動によって隆起して大地となり、それが雨水や地表水、土壌水、地下水などによって浸食されてできた地形のことで、鍾乳洞などの地下地形も含まれる。
有名なのはトルコのカッパドキア、中国の桂林や九寨溝(きゅうさいこう)、アメリカのイエローストーン公園などだが、日本三大カルストというと山口県の秋吉台、福岡県の平尾台、そして東西約25kmに連なる四国カルストだ。一番標高の高いところにあり、壮大な景観が楽しめる。
牛が放牧されていて、ゆったりとすごしている牛と、どこまでも広がる青い空、それに白い石灰岩が散りばめられた光景は、まるで別世界にいるようだ。
その後は、2時間とちょっとで高知龍馬空港へ。
結局、レンタカーで走った総距離は3日間で575㎞。
東海道五十三次の距離が約492㎞だから、それよりはるかに長い距離を走ったことになる。
高知18時発、羽田19時25分着のANAにて東京へ。
羽田空港で夕食をとろうと、1階の到着フロアで店舗紹介のパネルを見て、気に入った店を決めて階段を登ってその店の前に行くと、ありゃー、閉まっている。ほかの店も同じ。まだ早い時間なのに。
それだったら最初から店舗紹介のパネルに本日休業の知らせを張っておけばいいものを、金儲けは考えても客のことなんか何も考えてない証拠と、みんなでプンプン。
それでも、何とか開いている店を見つけて生ビールと餃子とタンメンを食べながら、旅の思い出を語り合う。
タンメンの上に乗っていたニンジンが、飛行機の形をしていた。
(おわり)