東京・大田区にある日本画家・川端龍子(りゅうし)の作品を所蔵・展示している「大田区立龍子記念館」で開催中のコラボレーション企画展「川端龍子VS高橋龍太郎コレクション-会田誠・鴻池朋子・天明屋尚・山口晃-」に行く。
入館料は大人500円、小人250円(65歳以上と6歳未満は無料)と安いのも魅力。
川端龍子(1885年(明治18年)~1966年(昭和41年))は、文化勲章も受賞した日本画の巨匠だが、権威におもねるのを潔しとせず、在野を貫いて「在野の巨人」「近代日本画壇の異端者」と呼ばれた人だ。
もともと洋画家をめざしたが、28歳のときに渡米したおりにボストン美術館で日本画を見て衝撃を受け、日本画に転向した。それから4年後の1917年に当時の日本画壇の権威である日本美術院の同人になるも、28年には脱退して独自に青龍社を創設して主宰する。
さらに彼は、当時は当然とされた寺社や茶室などの閉じられた空間に飾られるような繊細で優美な「床の間芸術」ではなく、作品をより広く大衆に訴えてこそ芸術は開花するとして、展覧会の会場で人々を感動させる「会場芸術主義」を提唱。そこで龍子が描いたのは、独創的な構図と激しい色使いによる規格外に大きな作品だった。
地下鉄都営浅草線の終点・西馬込駅から徒歩15分ほどのところにあるのが「大田区立龍子記念館」。
南馬込桜並木通りに沿って歩いていくと、キバナコスモスをアオスジアゲハが訪れていた。
川端龍子は長年、大田区に住んでいて、晩年の1963年、自身の発意と設計で自邸前につくったのが「龍子記念館」。当初は彼が主宰する青龍社が運営していたが、1990年土地建物と作品は大田区に寄贈され、区立の施設となった。
また、記念館向かいにあった龍子の自邸も、現在は「龍子公園」として整備されている。
展覧会を観るため記念館に着いたのが11時少し前。龍子公園はふだんは閉じていて、記念館開館日の午前10時と11時、午後2時の3回だけ入園できるというので、11時の回に公園内を見て回る。
龍子が晩年をすごした旧宅が保存されている。
母屋もアトリエも、龍子自らが設計したという。
随所に竹が使われるなど、龍子のこだわりが見られる。
大画面の作品を描いたアトリエは、天井高4m、60畳の広さ。
旧宅の静かさにひかれてきたのか、ヒグラシだろうか、セミがとまっていた。
母屋の居間の西側には春蘭の透かしが嵌め込まれてある。黒一色のシルエットが見事だ。
龍子は65歳のとき、妻と息子を相次いで亡くす。これを契機に仏教への信仰を深め、自邸内に持仏堂を建てて仏像を安置し、毎日絵を描く前に拝んでいたという。
仏像のうち毘沙門天立像は国の重要文化財に指定されていて、龍子の没後は東京国立博物館で保管されているという。
屋根の鬼瓦に当たる部分がやけに長い。
鳥衾(とりぶすま)という装飾瓦だそうだ。
屋根の反りを強調する龍子の美意識が感じられるが、これも龍をイメージしているのだろうか。
龍子が自ら設計した記念館も、龍子の名前にちなんで上から見ると「龍」の形に模してつくられてる。屋根の上に宝珠のように乗っているのはリュウゼツラン(竜舌蘭)の彫刻で、どこまでも「龍」にこだわっていたようだ。
さて、展覧会は、龍子の作品と、会田誠、鴻池朋子、天明屋尚、山口晃の現代アート作家の作品を対峙するように並べたコラボ展。
写真撮影が許された作品を紹介すると、龍子の作品は題して「香炉峰」(1939年)。
縦2m45㎝、横が7m27㎝もある巨大作品だ。
対する会田誠の作品は「紐育空爆之図(戦争画RETURNS)」(1996年)。これも縦1m74㎝、横3m82㎝ある。
龍子の「香炉峰」は、画面いっぱいに飛行する旧日本軍の九六式艦上戦闘機が描かれているが、胴体部分はなぜか半透明になっていて、下界の風景が透けて見えている。
1939年といえば日中戦争が始まって2年後であり、日本軍が中国への侵略を続けていたころ。龍子は海軍省の嘱託として大陸に渡り、実際に偵察機に乗ったことがあり、その体験を元にこの絵を描いたというが、海軍省から委嘱されての「戦争画」ではなく、自分が主宰する青龍展に出品するために描いたもの。
「飛行機を(半透明にして)透視的に扱ったのは作者のウィットによるもの」と説明書きにある。
搭乗しいるのは龍子本人か。
題名の「香炉峰」とは、中国の詩人・白居易の詩に登場し、清少納言の「枕草子」にも出てくる中国江西省の名山、廬山の主峰・香炉峰のこと。
白居易は「香炉峰下新卜山居(香炉峰下新たに山居を卜(ぼく)す)」という詩の中で、「香炉峰雪撥簾看(香炉峰の雪は簾(すだれ)を撥(かか)げて看(み)る)」と詠んだ。
この話は「枕草子」にも登場していて、雪が降り積もっていた御所で、皇后から「香炉峰の雪はどうだろうか?」と問われた清少納言は簾をかかげてみせた、というエピソードがよく知られている。
そこで龍子は、簾に代えて半透明の戦闘機越しに香炉峰を透かせて見ようという、まさにウィットに富んだ作品なのだ。
一方の会田誠の「紐育空爆之図」は、炎に包まれたマンハッタンとその火の上を∞(無限大)の記号を形づくりながら旋回する日本の戦闘機・零戦が描かれている。
近づいて見てみると、筆の跡の下地には日本経済新聞がそのまま貼り付けてあることがわかる。裏をみると安っぽい襖が使われていて、作者は鑑賞者に、何となく違和感を覚えるように仕向けているのだろうか。
会田はこの作品について「多くの日本人の心の奥深くに潜んでいると思われる願望を誇張し、自嘲的に戯画化して表現したものである」と語っているという。
展示されていた龍子のほかの作品の1つ「爆弾散華」(1945年)は、一見すると風に揺れる華麗な草花に見えるが、終戦の2日前に米軍の空襲で直撃弾を受けて、母屋が倒壊して使用人ら2人が亡くなった惨状を描いたもの。爆弾によって吹き飛ぶ姿を、命の象徴としてナスの花やカボチャ、トマトなどの植物で表現している。
「水雷神」(1944年)は、人間魚雷によって死へと突き進む特攻隊員の姿を重ねて描いている。
「草の実」(1931年)は、黒の地と金の草花のコントラストが見事な作品。
ほかにも、「逆説・生々流転」(1959年)、「源義経(ジンギスカン)」(1938年)、「夢」(1951年)、(「青不動(明王試作)」(1940年)、「吾が持仏堂 十一面観音」(1958)などなど、どれも大画面で迫ってくる。
ほかの作家の絵も含めて、どれも力作ばかりで堪能できたが、川端龍子というとどうしても思い出してしまうのが、孤高の画家・田中一村だ。
一村ははじめ南画で生計を立てていたが、やがて南画とは訣別して日本画の道に進み、自分の画力を世に問おうと39歳のとき、川端龍子が主宰する青龍社の第1回青龍展に出品した「白い花」が入選。翌年の第2回展にも2点を出品するも、1点は入選したものの自信作の作品は落選してしまい、このことで龍子と衝突。他の1点の入選を辞退して青龍社を離れてしまう。その後も日展や院展に応募するもことごとく落選し、画壇への絶望感を抱いた一村は南の島・奄美大島に渡る。大島紬の工場で働きながら絵を描き続けるが、病気になってその地で一人孤独のまま亡くなり、無名の画家としての生涯を終えた。
もしも第2回青龍展で一村の絵が龍子に認められていたら、彼のその後の人生は全く違ったものになっただろう。しかし、となると奄美大島に渡ることもなく「アダンの海辺」などの傑作も生まれないことになるから、何ともいえないが・・・。
そんなことを思いながら、帰途はバスでJR大森駅へ。
駅近くのそば屋「笑庵」でかき揚げせいろ。
JR大森駅のホームで電車を待っていたら、目の前の看板がいかにもアヤシゲだった。
ツタの絡まる古びた家に看板がかかっていて、「毎日の生活お疲れさまです ここはまねき家 地獄谷」と書かれてある。窓ガラスに張られたテープの跡は人の顔にも見える。
「おいで、おいで」と招かれて、ツタにからまれたまま地獄の底に引きずり込まれていくような雰囲気の看板。
実は「地獄谷」というのは通称で、ここには昭和の雰囲気が漂う「山王小路飲食店街」という40店ほどの飲み屋が並ぶ横町があるのだとか。
谷を下っていくようにして店がひしめいているので、通称・地獄谷。
その飲み屋街の一軒が「まねき家」というわけなのだった。
そうと知ったら喜んで引きずり込まれてもいいかも・・・。