善福寺公園めぐり

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反戦の作品だった?菱田春草「寡婦と孤児」

東京・上野の東京芸術大学美術館で開催中の「『買上展』芸大コレクション展2023」を観に上野へ。

JR上野駅を降りると、ちょうど連休真っ最中とあって人でいっぱい。上野動物園があるからか、目立つのは若い子連れの家族。

スタバの店にも長蛇の列ができていたが、店の前の花壇にアオスジアゲハがヒラヒラと舞い降りてきた。

水色の筋とともに、赤い差し色が鮮やかだった。

駅前にわんさかいた人波も、芸大方面に行くほどに減っていって、展覧会場はさほど混雑しておらず、ゆっくりと作品を鑑賞できた。

 

同大学では、卒業および修了制作の中から特に優秀な作品を買い上げて収蔵する制度があり、現在所蔵されている「学生制作品」は1万件を超えるという。本展ではその中から約100件を厳選。前身の東京美術学校時代から今日にいたる日本の美術教育の歩みを振り返るとともに、同大学の買上制度の意義を見直し、今後を見据えるための試みという。

第1部「巨匠たちの学生制作」では明治から昭和前期までの東京美術学校卒業制作を中心に自画像などを含めてた美校生たちの作品がズラリ。

おもな出品作品は、横山大観「村童観猿翁」、菱田春草寡婦と孤児」、和田英作「渡頭の夕暮」、小磯良平「彼の休息」、東山魁夷「スケート」、高村光太郎「獅子吼」、松田権六「草花鳥獣文小手箱」、富本憲吉「音楽家住宅設計図案」、吉田五十八「レクチュアホール」など。ほかにも青木繁萬鉄五郎藤田嗣治など15名の自画像を含め約50件が展示されている。

第2部「各科が選ぶ買上作品」では、先端芸術表現、文化財保存学、グローバルアートプラクティス、映像研究など研究領域が広がり、表現方法も多様化しているのがよくわかる。

 

しかし、何といっても本展で注目したのは菱田春草作の「寡婦と孤児」(1895年)。

春草は明治期に活躍した日本画家で、彼の代表作「落葉」を始め「黒き猫」「王昭君」「賢首菩薩」はいずれも国の重要文化財に指定されている。

明治期以降の絵画作品で国宝に指定されたものはまだなく、最高評価は重文指定だが、1人で4件の重文というのは明治以降の画家の中では最も多い数。近代の日本美術を代表する画家といえるが、画家として活躍したのは十数年しかなく、36歳という若さで亡くなっている。

しかし、春草の作品は彼の死から100年以上たった今もさん然と輝いている。そういえば来年2024年は春草生誕150年の節目だ。

彼は芸大の最終学年に上がった1894年(明治27年)6月の時点で卒業制作の構想に着手し、校長だっだ岡倉天心から直接の指導を仰ぎ、「写生」にこだわり、人物画をテーマにすることにしたという。卒業制作に取りかかるに先立って「武具の図」「六波羅合戦院の御所焼討図」「鎌倉時代闘牛図」「平重盛」といった武者絵を次々に制作している。

卒業作品として春草が題材としたのは、平安時代末期の平氏政権下の1180年(治承4年)、平清盛の命を受けた平重衡東大寺興福寺制圧の際、奈良の都に火をかけた「南都焼き討ち」だった。

春草は東大寺興福寺など寺の建築を写生するため京都・奈良に旅行に行くことにして、旅行資金約35円を早急に送金してほしい、と兄の為吉に求めている。しかし、為吉は春草の希望していた35円を工面できず、約半額の資金を送金したらしい。

一方、本展の展示資料によると、卒業制作には一人当たり25円の制作費が支給されていたというから、彼はこの制作費の一部も旅費に当て、京都・奈良へ写生旅行に出かけていったのだろう。

ところが、彼が描き上げた作品は、戦いの様子とか、勇ましい武者の姿ではなく、東大寺興福寺も描かれていなくて、描いたのは戦争の犠牲者であり、戦によって崩れかけた家の片隅で、夫の遺品である甲冑をそばに置きながら、わが子を抱くもの悲しげな表情の女性の姿だった。

この作品を描いたのは春草21歳のとき。すでにこのときから彼の作品の特徴である朦朧とした空気感が見事に表現されている。

 

しかし、勇ましい武者の姿ではなく、悲しい表情の女性と子どもが主役というのは、いったいどういうわけか?

美術評論家の勅使河原純氏によると、この作品で寡婦と孤児が描かれたのは日本と清国とが戦った日清戦争が関係しているという。

たしかに春草がこの作品の制作に取りかかっていたのは日清戦争の開戦のころであり、完成したのは終戦のころ。当初、勇ましい武者を描こうとしたものの、ふと町のどこかで見た、戦争の犠牲となって嘆き悲しむ母子の姿に心惹かれ、作品の主題にしたのだろうか。

 

日清戦争は、近代化と資本主義の発展の中で、市場や資源を求めてアジアに進出し、軍事力によって植民地化を進めようとした明治以後の日本の最初の外国との戦争であり、海外侵略だった。この戦争により海外に利権を手にした日本は、帝国主義の道を歩むことになる。

しかし、それによる国民の犠牲も大きなものがあった。

この戦争で、日本人2万人、清国人3万人、朝鮮人3万人以上の犠牲者が出たといわれている。

参謀本部編纂の「日清戦史」という公式記録によれば、日本軍の死者は1万3300余人。しかし、実際の戦いによる戦死者は1417人であるのに対して、病死者が1万1894人にのぼったとされている。

「日清戦史」によると、戦地の野戦病院への入院総数は11万5419人にものぼり、戦地に赴いた出征総数は17万1164人なので、出征兵士の実に半数以上の64・7%が入院したという。軍隊では3分の2が戦闘不能になると全滅と認定するという考えがあるというから、それに匹敵するすさまじい数字といえる。

兵士たちはどんな病気に襲われたかというと、脚気(かっけ)3万人(うち死亡4千人)、赤痢1万千人(同2千人)、マラリア1万人(同665人)、コレラ8千500人(同5千700人)、凍傷7千人など。

脚気はビタミンB1の欠乏が原因で、海軍軍医の高木兼寛脚気の原因が食べものにあることをいち早く見抜いて兵食に麦飯を取り入れ、海軍の脚気を激減させた一方、陸軍軍医であった森林太郎森鴎外)は、脚気は「脚気菌」による細菌感染症であるとの説にこだわり、兵士に白米をどんどん食べさせた。その結果、日清戦争脚気で死亡した4000人は陸軍兵士であり、海軍兵士はゼロだったというのは有名な話だ。

日清戦争は、戦争により多くの国民の命が奪われたというだけではない。日本はこの戦争で軍事的勝利は勝ち取ったもの、三国干渉と清国分割に見られるようにヨーロッパやロシアなどによるアジア侵略を誘発する結果となった。それがゆくゆくは日露戦争、さらには太平洋戦争と、国民を戦争の悲劇に巻き込む道につながっていく。

春草は、若くなおかつ鋭い感性でもってそうした時代の空気を肌で感じ、戦争による命のはかなさ、ヨーロッパ列強の忍び寄る影を寡婦と孤児の姿に投影したかったのかもしれない。

 

ほかの作品もいくつか。

横山大観「村童観猿翁」(1893年

 

和田英作「渡頭の夕暮」(1897年)

平山郁夫の「三人姉妹」(1952年)もおもしろい作品だったが撮影禁止となっていた。

 

第2部での彫刻。

荒井由美「ひろがる」(2016年)

タコが蛸壺から這い出してきたところ。乾漆でできている。

 

丸山智巳「千一夜」(1992年)

疾風のように飛ぶ人か風神か。

 

タナカノリユキ「PAINTING SCULPTURES 1985(Planet Landscape)」(1985年)

 

大小田万侑子「藍型染万の葉文様燈籠絵巻」(2018年)

 

「買上展」を観たあとは同大学美術館別館の陳列館2階で開催中の「解/拆邊界 亞際木刻版畫實踐」(脱境界:インターアジアの木版画実践)」へ。

アジア各地から12の作家・活動団体による木版画の世界。

アジアの木版画作家たちの作品を見ると、どれもメッセージ性の強さを感じた。