善福寺公園めぐり

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安田靫彦展

土曜日は竹橋の東京国立近代美術館で23日に始まったばかりの安田靫彦(ゆきひこ)展を観る。(5月15日まで)
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歴史画の大家といわれる人。戦前、戦中、戦後と描き続けた人だが、絵というものはその時代その時代の空気と密接に結びついているのだなとしみじみ思った展覧会だった。

展覧会の最初の1枚に衝撃を受ける。1899年(明治32年)の15歳のときの作品で、頼朝に追われ、落ちのびる際の義経、弁慶ら主従を描いた「吉野訣別」。もうこの年で歴史画を描いている。しかもすでに完成の域。
ほかにも10代の作品はどれもすばらしい。
持って生まれた天分があったのだろう。絵を学び始めたころすでに見事な絵を描いちゃってるから、その後の画家修行はむしろ大変だったに違いない。さらに高みをめざすにはどうしたらいいか。
24歳のとき、自分の絵を評して「あまりにも写実表現が生すぎる」と述べている。
写実を超えた表現をめざし、試行錯誤を続けたのだろう、30代になると画風に変化があらわれている。

しかし、やがて日本は軍国主義、アジア侵略へと突き進んでいく。彼もまた多くの画家たちと同様に軍国主義賛美の絵を描いていく。
最高傑作のひとつといわれ、重要文化財でもある「黄瀬川陣」は、先ず左隻が1940年(昭和15年)11月、「紀元二千六百年奉祝美術展覧会」に「義経参着」として発表され、翌年9月右隻とともに「黄瀬川陣」として院展に出品されたもの。
どこか肩肘はった硬さが見られる。
1942年(昭和17年)の「神武天皇日向御進発」に至っては天皇の姿は描かれていない。恐れ多い、というわけなのだろう。太平洋戦争真っ只中だけに“神国日本の前途は洋々”とばかりに戦意高揚を目的とする絵となっている。

それに比べて、呪縛が溶けた戦後の絵はよほど穏やかな表現だ。
王昭君」「卑弥呼」「鴻門会」など傑作も多かった。

安田靫彦展を見たあと常設展も見て回る。
さすが国立近代美術館。菱田春草の絵がいくつも展示されていた。
その中に「王昭君」もあった。
安田靫彦の「王昭君」はキリッとした表現で品位のある絵。一方、春草の「王昭君」は朦朧体であるゆえもあってか柔らかい表現で、哀愁惜別の情がにじむ絵だった。

こうやって対比して名作を見ることができるなんて、何てうれしい。

ほかに常設展でよかった作品。
荻原守衛の彫刻「文覚」(1908年)。圧倒的な力強さ。この作品は生きている!
海老原喜之助の一連の絵。こんなすばらしい絵を描いた人がいた。知らなかった!
帰って調べたら、フランスと日本で活躍し、1970年(昭和45年)66歳で亡くなっている。けっこう有名な画家だったらしい。
小倉遊亀の「浴女一、二」。モダンな日本画といおうか、清楚で上品な味わい。
前田青邨「石棺」。死者を弔う石棺内部の朱の色が赤というか紅というか黄色みがかっていて、鮮烈な色だった。

帰りは神保町まで歩き(実はとても近い)、「手打蕎麦 たかせ」という店で昼食。
ビールにそばがきに板ワサ、それにせいろと田舎そば。

そばがきは漆の容器の底に沈んでいる。おっ、これは・・・と、ちょっと期待。
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味は、風味不足。田舎そばも同じ。
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セイロは普通でした。
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