善福寺公園めぐり

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映画「夢二」のモチーフ「立田姫」と「宵待草」の意味は?

民放のCSで放送していた日本映画「夢二」を観る。

1991年の作品。

監督・鈴木清順、出演・沢田研二毬谷友子坂東玉三郎宮崎萬純広田玲央名原田芳雄長谷川和彦大楠道代麿赤兒ほか。

1917年(大正6年)、金沢。駆け落ちを約束した恋人の彦乃(宮崎萬純)を待つ画家の竹久夢二沢田研二)は、隣村で妻と妻の愛人を殺した男・鬼松(長谷川和彦)が山へ逃げたという噂を耳にする。だが、彦乃はあらわれず、湖上で死んだ夫・脇屋(原田芳雄)を待つという巴代(毬谷友子)と出会う。鬼松が殺した男というのは、脇屋のことだったが、巴代は夫の遺体が浮き上がってくるのを待っているのだった。

そんな巴代の美しさに惹かれる夢二。やがて2人は逢瀬を重ねるようになるが、脇屋の死を知って、弔いのために夢二の終生のライバルといわれた画家の稲村御舟(坂東玉三郎)もやってきた。

しかし、脇屋は殺されかけたものの、死んではいなかった。やがて脇屋がひょっこりと家に戻ってきて、夢二の前にあらわれる・・・。

 

独特の映像美と、やはり独特の解釈をする鈴木清順監督らしい作品。

2023年に生誕100年を記念した特集上映「SEIJUN PETURNS in 4K」で4Kデジタル完全修復版としてリバイバル公開された。

ツィゴイネルワイゼン」(1980年)「陽炎座」(1981年)に続く「浪漫3部作」の完結編だそうで、「ツィゴイネルワイゼン」は内田百閒、「陽炎座」は泉鏡花の小説を原作としているが、本作は完全オリジナル脚本で、大正から昭和にかけて活躍した竹久夢二の世界を幻想的に描いている。

 

なぜ本作を観たかというと、別に鈴木清順ファンというわけではなく、ヒロインの毬谷友子を観たかったからだ。彼女は元タカラジェンヌ宝塚歌劇団を退団後は舞台で活躍していた人で、昔、「セツアンの善人」だったかブレヒト作品を観たのが最初だと思うが、好きな俳優の一人だった。そんな彼女が鈴木清順に見込まれ、沢田研二の相手役をしていたとは知らなかった。

もう一人、坂東玉三郎が“男役”で出ているのにも驚いた。今や歌舞伎界を支える女形玉三郎だが、若いころは舞台以外で男の役もやっていて、1988年の「帝都物語」でも泉鏡花役で出演している。本格的な“男役”は本作が最初だとか(そして最後?)。

本作では稲村御舟という画家の役で出ているが、夢二と同時期に活躍した速水御舟をモデルにした人物という。

 

鈴木清順監督が本作で描こうとしたモチーフには2つあって、ひとつは映画の最後に出てくる夢二の美人画の集大成といえる「立田姫」と、もうひとつはエンディングで淡谷のり子が歌う夢二作詞による「宵待草」だと思うが、「立田姫」にしてもほかの夢二が書いた美人画にしても、毬谷友子と瓜二つで、清順監督がなぜ彼女をキャスティングしたか納得がいった。

のちに毬谷友子は語っている。

「キャスティングの段階でカメラテストがありました。『誰がなんと言っても毬谷さんがいい』と言って下さった鈴木清順の言葉に、この映画に命かけようって思いました」

 

(写真は当時の毬谷友子

彼女のツイッター(今のX)への投稿より

(同じく彼女のオフィシャルブログより)

 

映画では、女好きで浮気性の沢田研二扮する夢二が愛に溺れる耽美な世界が描かれているが、描かれるべきなのは果たしてそれだけなのか?

「宵待草」と「立田姫」の2つの作品からは、それだけではない夢二の苦悩が浮かび上がってきて、なぜ鈴木清順監督はそこを描かなかったのか?とも思うのだが・・・。

 

「宵待草」は最初、詩として1912年6月に雑誌「少女」に発表された。

 

遣る瀬ない釣り鐘草の夕の歌が

あれあれ風に吹かれて来る

待てど暮らせど来ぬ人を

宵待草の心もとなき

想ふまいとは思へども

我としもなきため涙

今宵は月も出ぬさうな

 

翌年11月には三行詩の形で絵入り小唄集「どんたく」(夢二の処女出版詩集)に掲載される。この詩をもとに曲がつけられ(作曲は多忠亮)、音楽会で初演されたのが1917年(大正6年)5月。翌18年に楽譜が出版され、日本中で有名になった。

夢二作による「宵待草」の原詩は、1910年(明治43年)、夢二27歳の夏、千葉県の房総方面に避暑旅行中に出会った長谷川カタ(当時19歳)との淡い恋をモチーフにしているといわれている。

彼女は秋田県出身で、成田の高等女学校の教師だった姉のところに身を寄せていて、偶然、夢二と出会う。夢二は彼女と親しく話すうちに心惹かれ、束の間の逢瀬を楽しむが、やがて夢二は帰京。翌年、再びこの地を訪れた夢二だったが、彼女はいなかった。夢二が思いを寄せているのを心配した父親が娘の身を案じて早々と結婚させたといわれている。

房総の海辺でいくら待っても、もはやあらわれることのない彼女の姿を宵待草に託し、実らぬ恋への愁いを歌ったのがこの詩といわれる。

だが、この詩については別の見方もあり、「大逆事件」の被告たちをモチーフにしたのではないか、という説がある。

夢二は反戦画家であり、日本で最初の社会主義画家だったという。

彼は1884年明治17年)岡山で生まれ育つも、家出して上京。早稲田実業高校に入り(のちに中退)、平民社(明治の日本で非戦論を中核として結成された社会主義結社)に出入りする荒畑寒村らとともに下宿して、社会主義に傾倒する。

夢二21歳のときの1905年(明治38年)、平民社発行の機関紙に掲載された彼が描いた風刺画は、白衣のガイコツと泣いている丸髷の女性が寄り添う姿を描いていて、日露戦争の勝利の陰の悲しみを表現しており、夢二が描いた最初の政治風刺画といわれている。

この絵からも、悲しみに暮れる女性への思慕の思いが伝わってきて、のちの美人画に通じるところがあるかもしれない。

このあとも「平民新聞」に風刺画などの絵を載せ、社会主義者らとの親交を深めていく。

のちに労農党代議士となった山本宣治(通称・山宣)とも親しかった。山宣は、5歳年上の夢二を尊敬していて、「ほんとうに民衆の心をつかんだ夢二さんの絵は50年、100年後になっても残り、時代がたつほどに素晴らしくなるだろう」とほめちぎったといわれる。

1910年(明治43年)8月、幸徳秋水らが逮捕・起訴される大逆事件が起こる。この事件は、社会主義者無政府主義者など政府に批判的な思想を持つ人々を弾圧するため、「明治天皇暗殺計画」なるものを政府がでっち上げ、一斉検挙に及んだ陰謀・捏造事件だった。このとき、夢二も事件関与の容疑で2日間警察に拘留され、しばらくは尾行がついたという。

夏に彼が房総方面に避暑旅行に出かけたというのも、警察の手から逃れるためのもので、潜伏先の房総の旅館に滞在中に出会ったのが長谷川カタだったという。

1911年(明治44年)1月、幸徳秋水ら24人に対する死刑の判決がいい渡され、その6日後には秋水ら11人の死刑が早くも執行されている。

夢二は号外でそのニュースを知り、友人たちと通夜をして秋水らの死を弔う。その翌年の6月に発表したのが「宵待草」であり、「待てど暮らせど来ぬ人を 宵待草の心もとなき」という詩に託して、秋水らを偲び、社会主義の到来を待つ思いを詩にしたのだという。

ちなみに、「宵待草」の詩のモデルとされる淡い恋の相手、長谷川カタは、1912年(明治45年)、音楽教師の須川政太郎と結婚し、1男3女に恵まれ、今は政太郎の出身地である和歌山県新宮市の墓地に夫とともに眠っているが、奇しくもその墓の隣には、大逆事件で処刑された大石誠之助の墓がある。

大石誠之助はアメリカ、カナダで医学を学び、帰国後、新宮市仲之町(のちに船町)に「ドクトルおほいし」の看板を掲げて医院を開業。多くの貧しい人々を無料で診察し、慕われた。現在では誠之助は再評価され、戦争反対・廃娼を唱えて積極的に活動した熊野地方の人権の先駆者として顕彰もされているという。

そんな誠之助を少年のころから尊敬していたのが、長谷川カタの夫、須川政太郎だった。彼は子どものころ病気すると誠之助に往診してもらった経験があり、音楽教師になることをめざしていた彼が「両親は反対している」と誠之助に相談すると「音楽で世の中を明るくしなさい」といってくれ、反対する父親を説得することまでしてくれ、彼は誠之助の姿に、人間の生き方の理想像を見た思いでいたという。

 

「宵待草」と並ぶ本作のもうひとつのモチーフ、「立田姫」とはどんな絵か。

夢二は1931年(昭和6年)47歳のとき、翌年にかけてアメリカ、ヨーロッパを旅行しているが、5月の渡米前、展覧会に出品したのがこの作品。

「自分の生涯における総くくりの女、ミスニッポンだ」と語っているという。

たしかに彼が生涯愛した女性たちの面影が残る“夢二式美人”の集大成のような作品だ。後ろ姿なのに顔は正面を向いていて、S字ポーズの見返り美人ふう。夢二はこの絵を描いた3年後に没するが、生涯をかけて求め続けた理想の女性像がそこに描かれている。

ただし、描かれているのはだの美人ではない。

立田姫とは秋の豊作の女神のことで、龍田姫と表記されることもある。

絵の右上には唐の詩人、杜甫の詩の一節が書かれている。「歳晏行(さいあんこう)という題の七言律詩で、768年暮れの作。はるばる流れてきた土地も戦乱の余波で人々の生活は困窮し、その貧しい人々から税を取り立てようとする役人たちに憤っている。

夢二はこの詩の一部を、言葉を少し変えて書いていて、「去年米貴缼常食 今年米賎太傷農」とある。「去年は米が高くて常食を欠き、今年は米が安くて農民をひどく困らせている」といった意味か。

富士山を前に農民の苦しさを嘆きながら舞う立田姫の姿。

夢二がこの絵を描いたのには、美人画の集大成というほかにもはっきりとした理由があった。

この当時、日本は世界恐慌の渦の中にあり、日本経済は危機的な状況にあった。中でも1930年(昭和5年)から31年にかけては特に深刻な大不況に見舞われ、大きな打撃を受けたのが農村だった。世界恐慌の余波で生糸の対米輸出が激減したことにより生糸価格が暴落するとともにほかの農産物も次々に価格が暴落。政府がとったデフレ政策と1930年の豊作による米価下落により、農村では日本史上初といわれる「豊作飢饉」が生じた。翌31年には一転して東北・北海道を中心に冷害による大凶作となり、農家はますます貧窮。わずかな身代金で奉公に出される娘の身売りが相次ぎ、大都会の遊廓に遊女として売られる悲劇も生まれた。

そしてこの年の9月、中国東北部満州事変の発端となる柳条湖事件が起こり、日本は終戦までの15年戦争の泥沼に突入していく。

そんな時代を背景に描かれたのが「立田姫」であり、夢二は杜甫の詩の一節を借りて昭和恐慌の中で困窮する農民たちの現状を憂い、農民を切り捨てにする政治に厳しい目を向けているのだ。

立田姫」に描かれている女性は、口減らしのため都会に売られていく娘の姿なのかもしれない。

 

永遠の女性像を探し求めた夢二は、実生活でも恋多き人生を送ったのはたしかだろうが、決して女たらしの遊び人ではなかった。彼が多く恋をしたのは感受性が強く、純粋な心を持っていたからで、女性が抑圧されていた社会に対しても厳しい目を向けていたのではないだろうか。純粋な心ゆえに、戦争に突き進むような政治が許せず、世の中を変革したいと思うようにもなっていったのだろう。

彼が描く美人画が、浮世絵やほかの画家の作品とは違って、どこか憂いを含んでいるのも、抑圧された社会に生きる女性たちを描いているからなのだろうか。

その点を鈴木清順監督に描いてほしかったが、彼にはそんな気はなかっただろうとは思う。