善福寺公園めぐり

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リチャード二世 足かけ12年の最終章

東京・初台の新国立劇場シェイクスピア「リチャード二世」を観る。 

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コロナ禍での上演というので当初発売時は座席の前後左右を1席ずつ空けていたが、その後緩和されて満席もオーケーとなり、前方席はけっこう埋まっていた。

シェイクスピアの史劇というので観客は男ばかりかと思っていたら、意外や女性、それも若い女性が席の多くを占めていた。

 

2009年から足かけ12年続いた新国立劇場シェイクスピア歴史劇シリーズ上演の最終作。

これまで観たのは、2009年にシェイクスピアの処女作「ヘンリー六世」を鵜山仁の演出で第1部から3部までを一挙上演。午前中から夜まで合計9時間におよぶ長丁場で、一日がかりの観劇。これほどの長さの上演時間というので当時話題になった。

続いて12年には「リチャード三世」、16年に「ヘンリー四世」第1部、第2部の通し上演。これも途中休み時間を挟んで6時間の上演だった。

 

そして今回の「リチャード二世」。

歴史的には最も古い時代を扱った史劇(リチャード二世が生きた時代は日本でいえば応仁の乱の前の南北朝時代)で、その後の王位をめぐる争いの発端ともなるボリングブルック(のちのヘンリー四世)によるリチャード二世からの王権奪取が描かれている。

なぜならリチャード二世は、1154から始まるプランタジネット朝最後の王であり、この後、王の血筋は分裂し、プランタジネット家の男系の直系は断絶して傍系であるランカスターとヨークの史劇『リチャード三世』『ヘンリー四世』『ヘンリー五世』『ヘンリー六世』へとつながっていく。

最終作にして最初に立ち戻るという、ある意味不思議な感じの公演だが、その後どうなったかを理解する上でも、どのようにして始まったかが重要なのかもしれない。

 

演出の鵜山仁をはじめスタッフはほぼ同じ布陣で(翻訳は今回は小田島雄志)、出演も岡本健一浦井健治中嶋朋子など変わらないメンバー。

メンバーは変わらないけど最初のときにヘンリー六世役をしてピュアなイメージだった浦井健治。少しふっくらしてオジサンになった感じがした。やはり十年一昔。

 

「ヘンリー六世」はシェイクスピアの劇作家としてのデビュー作だった。このとき彼は26歳の若さ。その後も歴史劇を書き続けるが、やがていくつもの悲喜劇を世に残している。

「ロメオとジュリエット」「夏の夜の夢」(いずれも95-96年)「ヴェニスの商人」(96年)「お気に召すまま」(99年)「ハムレット」(1600-01年)「十二夜」(01-02年)「オセロー」(04年)「リア王」(05年)「マクベス」(06年)「テンペスト」(11年)などなど。

ほかにも名作は数々あれど、シェイクスピアの原点というか出発点は歴史劇だった。

 

さて、その今回の舞台。

枯れ草だらけの荒涼とした地に朽ちた木組みの舞台が配置され、ところどころに色鮮やかな花も咲いている。

中央に置かれた玉座にリチャード二世(岡本健一)、そして王妃(中嶋朋子)。まわりに従兄弟(いとこ)であるヘンリー・ボリングブルック(のちのヘンリー四世、浦井健治)ら貴族たちが集まっているところから物語は始まる。

やがて、国の統治を誤り、民心が離れたリチャード二世はボリングブルックの謀反により廃位に追い込まれ、ついには殺害されてしまうが、貴族たちの交錯する思惑と駆け引きが、権力にまとわりつく人間の本性をあぶり出していく。

 

リチャード二世が劇の前半と後半でまるで違う人物に描かれている。

前半の王位についていたころのリチャードは、王でありながら小心で、どこかおどおどしている。それは統治に自信がないからなのか。

ところが王位を奪われてただの人間になると、途端に詩人になって、まるで詩を吟じるように雄弁に語り始める。

人は絶望の縁に立つと詩人になるのだろうか。

あるいは、神から与えられた王であり神聖であるという「仮面」をはぎ取られ、本来の姿である人間に立ち戻ったとき、その人の本当の心の声が聞こえてくるのだろうか。

きっとシェイクスピアがこの史劇でいいたかったのも、そのことだったのではないだろうか?

 

もうひとつ、今回の舞台で大いに笑った場面(正しくはたった1回だけ笑わせる場面)が、ヨーク公マンド(横田栄)の息子オーマール(亀田佳明)がリチャードに味方して即位したばかりのヘンリー四世への謀叛の企てが発覚し、妻(那須佐代子)とともにヘンリー四世に許しを乞うところ。

どういうわけかここだけコミカルに描かれていた。ほかにも庶民代表として庭師とか馬丁とかが登場し、シェイクスピアの劇だとこのあたりで笑わせるところなのだが、今回はそれはなく、むしろ、ヨーク公の息子の謀叛と命乞いのところで笑わせている。

特に、夫婦でもめて妻のヨーク公夫人が亭主のヨーク公股間を蹴りあげるところなんか、もうサイコー。

で、結局のところヘンリー四世は夫婦の命乞いを受け入れ、息子を許すのだが、のちのちヨーク公の家系はヘンリー四世のランカスター公の家系と対立するようになる。その対立の発端をシェイクスピアはあえてコミカルに描こうとしたのだろうか。

 

そもそもヨーク公もランカスター公も兄弟同士だ。

国王エドワード三世には子どもがたくさんいて、第1子の長男が死んでしまったためその息子、つまりエドワード三世の直系の孫がリチャード二世。次男は早世し、三男がクラレンス公(29歳で没)。四男がランカスター公でヘンリー四世の父親。五男がヨーク公で、のちのち彼の孫がランカスター朝から王位を奪おうと薔薇戦争を引き起こし、ヨーク朝エドワード四世へとつながっていく。

 

王位(つまりは権力の頂点)をめぐる身内同士の争いというのはどうしても骨肉の争いになっていくのだろうか。