善福寺公園めぐり

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ヘンデルのオペラ「シッラ」のナゾ

横浜・桜木町神奈川県立音楽堂ヘンデル(1685年-1759年)のオペラ「シッラ」が日本初演された(演奏はファビオ・ビオンディ率いる古楽アンサンブル「エウローパ・ガランテ」ほか)が、当日配られた冊子に、とても興味深い話が載っていた。

日本ヘンデル協会会員でヘンデルやオラトリオの研究をしている三ヶ尻正氏の「ヘンデル:オペラ《シッラ》楽曲解説」によれば、「シッラ」はヘンデル28歳のときのロンドン・デビューから2年後の1713年のオペラだが、「作曲の経緯が不明な上に、本当に上演されたか定かではない謎の作品。古代ローマ時代の暴君の専横と没落が題材だが、その裏には、戦場で名将と謳われながら、政界では頂点に立てなかったマールバラ公爵ジョン・チャーチルへの批判が込められている」というのだ。

1713年といえば今から300年以上の昔のこと。ヘンデルはバッハと並ぶバロック音楽の大家であり、そんな大作曲家のオペラ作品というのに上演されたかどうか定かではなく、初演の記録も残っていないという。

300年以上もの間、初演もされずに眠ったままというのはいったいなぜなのか?

しかもこのオペラは、古代ローマの世界を描いているようでいて、実はヘンデルが活躍していた時代のイギリスのマールバラ公爵ジョン・チャーチルへの批判が込められているという。

マールバラ公とはいったい何者なのか?

 

「シッラ」は古代ローマに実在した執政官シッラの暴政をテーマにしているが、権力者の横暴を面白おかしく描いて暗に批判したり、社会的メッセージを込めた作品にしたりというのは、政治批判がおおっぴらにできなかった時代にあっては、オペラや芝居などで昔からよくあることであり、それに庶民は喝采を送ったという。

そういえば日本でも、落語や歌舞伎などで、権力者の横暴を架空の人物や過去の歴史上の人物に見立ててとっちめたり、笑い飛ばしたりするのはよくやられていたが、共通するものがありそうだ。

では、ヘンデルのこの作品ではどうなのか?

ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルはドイツ出身の音楽家で、イタリアで成功したのちにイギリスに渡り、長年活躍してイギリスに帰化した。このときから名前もジョージ・フレデリック・ハンデルとなったという。

彼は、最初はアン女王、その後ジョージ1世に仕え、王家を後ろ楯とする音楽家として不動の地位を築いていった。

とするとヘンデルの場合は、庶民の声を代弁するというより、この時代、オペラは政治的主張や王権の正統性をアピールする手段でもあったから、むしろ王家のための政治的メッセージを込めたオペラをつくったようだ。

三ヶ尻氏も次のように述べる。

「当時のオペラやオラトリオは娯楽・芸術作品であると同時に、王侯や政権が内外に業績や政策を宣伝したり、反対勢力が相手を非難・揶揄したりするメディアでもあった」

ヘンデルは1706年、21歳のときイタリアに赴き、ヴェネツィアフィレンツェなどでオペラを作曲。25歳となる1710年、ドイツに戻ってハノーヴァー選帝候ゲオルク・フリードリヒの宮廷楽長に任命される。

このハノーヴァー選帝候ゲオルク・フリードリヒこそ、次期イギリス国王に内定していた人物で、三ヶ尻氏によれば、楽長としてのヘンデルの仕事とは、「イギリスで次王の前宣伝を行う音楽家=広報官」であり、「仕事柄、宮廷や政治家の輪にも入っていける一種のスパイ=情報官」だったという。

 

ヘンデルは1710年、ハノーヴァーの宮廷楽長となったのち、その年の暮れに初めてロンドンを訪れる。ロンドンに赴いたのは次期国王となるゲオルク・フリードリヒの前宣伝であるオペラ「リナルド」を上演するためだった。ロンドンで上演された最初のヘンデルのオペラ作品であり、上演回数は1711年だけで15回を数え、大成功をおさめる。

この年の6月にオペラのシーズンが終わるといったんハノーヴァーに戻るも、翌1712年11月には再びロンドンを訪れ、そのままイギリスに住み着くことになる。

彼がロンドンを訪れた当時、イギリスの国王はアン女王だった。ヘンデルがイギリスを最初に訪れた1710年当時、彼女は45歳。

それまでに6回の死産、6回の流産を含め生涯に17回妊娠したが、一人の子も成人しなかった。このため精神的に不安定となり、酒に溺れるようになったといわれる。

王家にとって跡継ぎがいないのは死活問題。困ったあげく、遠縁にあたる又従兄のハノーヴァー選帝候ゲオルク・フリードリヒが次の国王として内定していた。ゲオルク・フリードリヒはドイツ人で、英語はカタコトでしかしゃべれない。ドイツ人の名前じゃマズイというので即位後はジョージ1世を名乗ることになる。

ジョージ1世が即位したことでイギリス王室はドイツの王にルーツを持つことになり、代々ドイツの血が流れ、のちにはナチス・ドイツヒトラーと関係の深い国王もあらわれることになる。

 

それはさておき、当時のイギリスはどんなだったかというと、1707年にイングランドスコットランドが合併してグレートブリテン連合王国となり、スペイン継承戦争が起き、戦争継続派のホイッグ党、戦争終結派のトーリー党という二大党派の政争によって政党政治が発達していく。

スペイン継承戦争というのは1701~14年のスペイン王位継承をめぐる国際戦争で、フランス王ルイ14世の孫フィリップの即位に反対して、オーストリア・オランダ・イギリスが同盟して開戦。その結果、フランス・スペインは王位継承と引き換えに多くの領土を失うことになる。

軍隊を派遣してドンパチやっているのに、アン女王をはじめ上流階級の人々は贅の限りを尽くす宮廷暮らし。中でも、女王を意のままに動かして宮廷の実質的な権限を握っていたのが、女王のお付きの女官で“お局さま”のサラ・ジェニングスであり、その夫のマールバラ公ジョン・チャーチルだった。

マールバラ公はスペイン継承戦争では将軍として大陸各地の大きな戦いを制し、名を馳せた。その戦功を盾に政界にも進出して大きな発言力を持つようになり、戦争継続派のホイッグ党とともに戦争遂行に突き進み、サラも夫の代弁者となって女王に進言する。

ちなみに、マールバラ公&サラは、イギリス皇太子妃だったダイアナ妃とウィンストン・チャーチルの祖先に当たる人物。

三ヶ尻氏は、このマールバラ公こそ、オペラに登場する暴君シッラに違いないと指摘している。マールバラ公をシッラに見立てることで、暗にマールバラ公を糾弾しているというわけだ。

しかし、三ヶ尻氏も指摘していることだが、そこには矛盾も生じる。マールバラ公が発言を強める一方で、女王は和平推進派のトーリー党を支持するようになり、マールバラ公やサラを疎ましく思うようになっていった。

1710年、ついに女王はサラを宮廷から追放。翌年、マールバラ公も軍資金横領が発覚して失脚してしまう。

ハイドンがロンドンに最初にやってきたのは1710年の暮れで、オペラ「シッラ」が完成したのは1713年の初めごろとみられている。

そのころにはもはやマールバラ公は失脚し、妻のサラも宮廷から追放されていた。そんなときに何をいまさらマールバラ公を非難するオペラが必要だったのか?と思うのだがどうだろうか。

 

それより考えられるのは、ドイツ人であるゲオルク・フリードリヒが新国王につくのを反対している勢力に対する、アンチテーゼとしてのオペラ「シッラ」ではなかったかということだ。

この当時イギリスでは、アン女王の跡継ぎがなく、このままでは国教であるプロテスタントの王族が途絶えるというので、それを防ぐために遠縁のゲオルクが次の国王となることになったが、その一方で、カトリックとはいえ直系王族であるジェームズ2世の息子であるジェームズ老僣王こそ正統な王であるとするジャコバイト(名誉革命反革命勢力)と呼ばれる人たちの動きもあった。

ジェームズ2世はイギリス史の中で、カトリック絶対王政を目論み専制政治を強化したというので悪役として描かれていた人物。歴史上最後のカトリック信者のイギリス国王であり、1688~89年の名誉革命により王位から追放された。

ジェームズ老僣王は生まれてすぐに名誉革命に遭遇し、父とともにフランスに亡命。彼はフランスで育てられ、父であるジェームズ2世が1701年に亡くなったあとも、ルイ14世によってイギリスの正統な王位継承者として認められ、ジェームズ3世としてジャコバイトたちの中心人物となっていた。

1708年にはフランスの支援を得てイギリスに侵攻するもイギリス軍の反撃にあい敗退している。

 

こうした経緯をみると、「シッラ」で描かれた暴君シッラとは、一度は王位から追放されながらもジョージ1世の国王即位を阻止して国王に復帰しようとしたジェームズ2世であり、その息子のジェームス3世、さらには2人を後押ししたフランスのルイ14世ではなかっただろうか。

「シッラ」の初演時の印刷台本が残されていて、それにはフランスからの大使ドーモン公を歓迎するための作品、と書かれてあった。また別の資料では、「初演はおそらく1713年6月2日、ロンドン、バーリントン・ハウス内の女王劇場」となっている(First performance probably 2 June 1713, Queen's Theatre, at Burlington House)。

バーリントン・ハウスとはバーリントン伯爵リチャード・ボイルの館のことで、その中に女王劇場もあったようだ。

しかも「シッラ」はバーリントン・ハウスにおける私的上演のために作曲されたといわれている。

これらのことは何を意味するか?

つまり、「シッラ」は、フランスからきた駐英大使ドーモン公(ということはほかのフランスの関係者も含めて)に見せるためのオペラだったということだ。

ふつうヘンデルの作曲するオペラは4時間ぐらいかかるという。しかし、「シッラ」は2時間ぐらいの短いオペラ。その理由は、このオペラは劇場での上演のために書かれた作品ではないからで、バーリントン・ハウスにおいて招待客だけが聴くことのできたオペラだったからだ。

「シッラ」では劇中、盛んに「祖国のために戦うこと」の意義が訴えられていて、最後には暴君シッラも自らの過ちを詫び、祖国への忠誠を誓う。次期国王であるジョージ1世に敵対しようとするジェームズ2世やジェームス3世、2人を後押しするルイ14世への当てつけであるのは明らかだろう。

フランスの代表に対する政治的メッセージがねらいだから、バーリントン・ハウスでの招待客向け公演だけで終わるのはあらかじめわかっていることだった。

それでもさすがヘンデルの作曲だけに、内容はすばらしいもの。1回やっただけで終わりにしてしまうのはもったいない。その点はヘンデルも抜け目がなくて、「シッラ」の曲の大半はのちのオペラ「アマディージ」(1715年)に転用され、めでたくたくさんの人々に聴いてもらうことになる。

さすがただの作曲家ではなく、何てしたたかなヘンデルさん、というべきだろうか。

 

それにしても、名作として今日残っているオペラ作品の陰には、いろんな歴史のドラマが秘められているもので、それは芝居や絵画などの世界でもいえることだろう。

ちなみに「シッラ」がバーリントン・ハウスで上演される直前の1713年4月、1701年から続いていたスペイン継承戦争終結してユトレヒト条約が結ばれる。これによりルイ14世の大陸制圧計画は挫折し、イギリスは領土を拡大。フランスからイギリスに奴隷貿易の権利が譲られ、それ以後はイギリス商人は大西洋の黒人奴隷貿易を独占するようになった。イギリスの繁栄は人身売買による奴隷貿易にも支えられたことになる。

翌年の1714年にはアン女王が49歳の若さで死去。ジョージ1世が即位し、その後、マールバラ公ジョン・チャーチルも名誉回復を果たしたという。

ヘンデルはその後、作曲家としてだけでなく公演事業にも携わるようになるが、晩年は失明や脳疾患に苦しみ、74歳で没。イギリスの名士の霊廟であるウェストミンスター寺院に葬られる。死後も名声は衰えず、料理のサンドイッチの語源になったとして有名なサンドウィッチ伯爵は、1784年にヘンデル祭を企画し、ヘンデルの作品演奏を旨とした「古楽演奏協会」を立ち上げるなどしてヘンデルを顕彰し彼の曲を後世に残そうとしている。