善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

歴史の旅を楽しむ アビール・ムカジー「阿片窟の死」

アビール・ムカジー「阿片窟の死」(田村義進訳、ハヤカワポケットミステリーブック)を読む。

f:id:macchi105:20220331165812j:plain

カルカッタの殺人」「マハラジャの葬列」に続くインド帝国警察ウィンダム警部&バネルジー部長刑事の活躍を描く歴史ミステリーの第3弾。

著者は1974年生まれのインド系移民2世。

 

1921年の独立の気運高まる英領インド。帝国警察のイギリス人・ウィンダム警部が阿片窟で目撃した眼球のない刺殺体が消えた。イギリスのエドワード皇太子のインド親善訪問を前に、カルカッタ(今のコルカタ)に厳戒態勢が敷かれるなか、街では同様の変死事件が相次ぎ、同一犯による連続殺人と判明。ウィンダムと、彼の部下でインド人のバネルジー部長刑事は容疑者を追うが・・・。

 

本書はフィクションだが、作中の人物や出来事の多くは史実にもとづいていて、歴史書を読むごとく小説を楽しめる。

小説を読みながら、まだ生まれてもいないあの時代が目に浮かんでくるようだ。

 

主要な登場人物の中には、インド独立の英雄と名高いチッタ=ランジャン・ダースやスバス・チャンドラ・ボースの名もある。

チッタ=ランジャン・ダースは、ベンガルでインド独立の父とされるガンジーの首席補佐官を務めていた人物。ボースはのちに民族主義者の英雄として知られるようになるが、本書に描かれている当時はイギリスから帰国したばかりでまだ20代半ば。ダースの腹心として働いていた。

 

ボースは日本との関係が深く、来日したりして第2次世界大戦中に日本の支援を得てインドを独立させようとしていたことでも知られる。しかし、日本の敗戦により日本と協力してイギリスと戦い独立を勝ち取る夢は破れ、次に中国やソ連の支援を受けようとして、台湾から日本軍の飛行機で大陸に向かう途中、飛行機が墜落して死亡。墜落した台湾で火葬されたのち、遺骨は日本に運ばれ、東京・杉並区の日蓮宗蓮光寺で葬儀が行われた。遺骨はいまだ同寺に眠ったままという。

英雄であるなら遺骨はインドに持ち帰って手厚く葬られてしかるべきと思うが、インドでは長らく「ボース生存説」が信じられていて、彼は死んでいないことになっているという。最近になってDNA鑑定により決着をつけようという話が進んでいるようだが、まだ実現していないようだ。戦後77年がたっても歴史は止まったままとなっている。

 

もう一人、イギリスのエドワード皇太子も登場して主人公と言葉を交わしている。皇太子がこの当時インドを訪問したのは事実で、植民地や同盟国・友好国を訪れる世界巡歴の旅に出ていて、日本も訪れている。

 

エドワード皇太子はのちにエドワード8世として英国王となるが、離婚歴のあるアメリカ人女性ウォリス・シンプソンと結婚するために英国王としては歴代最短の在任期間わずか325日で退位。このエドワードの恋は「王冠をかけた恋」と呼ばれたが、実は彼もウォリスも大のナチス・ドイツびいきだったといわれる。

彼はウィンザー朝の第2代国王となるが、もともとウィンザー家の家名はサクス=コバーグ=ゴータ家といって、ドイツ系の家系だった。あまりにもドイツっぽいのはまずいと、エドワードの父のジョージ5世は、王宮のあるウィンザー城にちなんでウィンザー家と改称している。つまりもともとドイツびいきの家系だった(ということは現在のエリザベス2世もドイツ系の流れをくんでいることになる)。

 

英国王を1年足らずで退位した翌年の1937年、ウインザー公となった前国王と夫人は、非公式ながらドイツを訪問。大歓迎を受けてヒトラーと仲よく記念写真におさまっている。しかも夫人は駐英ドイツ大使で、のちにナチス政権の外務大臣になったリッベントロップと不倫関係にあったという。

この当時、イギリス政府もナチス・ドイツに寛容で、宥和政策をとっていて、それがドイツの領土拡張を許すことにもつながったといわれている。

戦争勃発後、ヒトラーはこの2人を利用しようとしていて、戦況がドイツ有利になったらウインザー公を再び国王にして、イギリスに傀儡政権をつくることをねらっていたという。

とすると、表向きは純愛物語のような「王冠をかけた恋」も裏には政治的な駆け引きが渦巻いていたのかもしれない。

 

しかし、本書でなによりおぞましいのは、イギリスがインドで行っていた化学兵器の人体実験の事実だろう。

連続殺人の容疑者とは、ネパール人で構成されるグルカ連隊の兵士であり、イギリス軍が行っていた化学兵器開発の人体実験に自分の息子が利用されて死に至らしめられたことへの復讐だった。

 

本書末尾の著者の「覚書」によれば、イギリスのポートン・ダウンには100年以上にわたってイギリス国防省の科学技術研究の拠点があり、そこの科学者たちは、インド人兵士に対して(のちにはイギリス人兵士とオーストラリア人兵士に対しても)無断でマスタード・ガスの使用を含む生体実験を行っていたという。

ただし、この種の実験がより頻繁に行われたのは本書にあるような第1次世界大戦中ではなく、1930年代のことで、そのための施設はパンジャブ州北端の街ラワルピンディー(現在はパキスタン領)にあった。

 

日本にもかつて生物・細菌兵器の研究開発を行い、捕虜などとして拘束した朝鮮人、中国人などを対象に人体実験を行っていた旧日本陸軍731部隊があったが、アメリカやソ連なども盛んに生物・細菌兵器の研究開発を行っていた。

第2次大戦後も、アメリカはベトナム戦争枯葉剤を散布する作戦を行ったが、これは明らかに化学兵器の軍事利用であり、下半身がつながった結合双生児としてベトナムで生まれたベトちゃんドクちゃんのような被害を招いた。

実は枯葉剤はすでに第2次大戦中の1944年にフロリダで実験済みで、日本の稲作に打撃を与えるため散布する計画があったという。一説には45年8月10日には「対日枯葉剤作戦計画」が立案されていて、戦争がもっと長引いていれば日本の各地に化学兵器である枯葉剤が大量散布されていたかもしれない。

それ以前に、8月6日と9日に究極のジェノサイド爆弾である原爆がアメリカ軍により投下されたが。

 

いずれにしろ、戦争になれば、人は狂気に走って何をするかわからない。怖いし、決して許してはならない。