善福寺公園めぐり

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きのうのワイン+映画「リトル・ダンサー」他

フランス・ボルドーの赤ワイン「シャトー・ジレ・ルージュ(CH.GILLET ROUGE)2019」f:id:macchi105:20211129112002j:plain

5世代に渡ってボルドーの地でワインを造る老舗シャトーのワイン。

メルロ、カベルネ・ソーヴィニヨンカベルネ・フランブレンド

ボルドー・ルージュの深い色。ふくよかな果実味となめらかな舌触りで飲みやすい。

 

ワインの友で観たのは、NHKBSで放送していたイギリス映画「リトル・ダンサー」。

2000年の作品。

原題「BILLY ELLIOT」

監督スティーヴン・ダルドリー、出演ジェイミー・ベルジュリー・ウォルターズ、ゲイリー・ルイス、ジェイミー・ドレイヴンほか。

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1984年、イギリス北東部の炭坑町ダーラム。11歳のビリー・エリオットジェイミー・ベル)は炭坑労働者の父親(ゲイリー・ルイス)と兄(ジェイミー・ドレイヴン)、おばあちゃんと暮らしていた。ある日、ビリーの通うボクシング教室のホールにバレエ教室が移ってきた。ふとしたことからレッスンに飛び入りしたビリーは、バレエに特別な開放感を覚えるようになる。教室の先生であるウィルキンソン夫人(ジュリー・ウォルターズ)もビリーに特別な才能を見出す。それからというものビリーはバレエに夢中になり、ウィルキンソン夫人はビリーにロンドンのロイヤル・バレエ学校への入学を勧めるが・・・。

 

ふとしたきっかけでバレエの天分を見出され、バレエダンサーめざす少年の姿を描いた映画だが、父と子、そして家族の深い絆を描いた映画でもあった。

父親は「バレエなんか女のやるもの」と怒鳴り散らす職人気質の炭鉱労働者。同じ炭鉱で働く兄も同じ。母親は亡くなっていていないが、半分認知症のおばあちゃんは「私も若いころはバレエダンサーをめざしたわ」とビリーにやさしく微笑みかける。

 

はじめはバレエダンサーをめざすことを許さなかった父親も、あまりの熱心さと、ふと見たビリーの踊る姿に目を見開かれ、バレエ学校のオーディションを受けることを許す。

しかし、バレエ学校に通うとなると高い学費を払わなければいけない。父親も兄も炭鉱で働いていて賃金は安い。しかも炭鉱では合理化計画が進行中で、これに反対する労働組合によるストライキの最中だった。

父親も兄もストの最前線で戦っていたが、ビリーのためにお金が必要と知った父親は、スト破りの男たちと一緒にこっそり仕事に行こうとする。驚いて引き止める兄に、父親は「ビリーの夢を叶えてやりたいんだ」と泣き崩れる。

何とかスト破りだけはとどまった父親は、仲間からカンパしてもらったりしてお金をかき集めて、ビリーとともにオーディションを受けるためロンドンへ向かう。

貧しくたって息子の夢を叶えさせてあげたい。父親の切なる思いが描かれている。

 

映画はフィクションだが、ストライキは実際にあった出来事だ。1984年当時、イギリスの炭鉱は国営だったが、イギリス経済の競争力強化のためとして、炭鉱を含む国有産業の民営化を進めようとしていたのがサッチャー首相。

同年3月、その年中に174坑あった炭鉱のうち採算のとれない20坑を閉鎖し、約2万人の首を切る合理化計画を公表したことが発端となり、これに反発した労働組合による大規模ストライキへと発展していた。

就労しようとする反スト派の労働者に対し労働組合側がピケを張って妨害しようとすると、政府は警官隊を繰り出して取り締まろうとし、両者の衝突でけが人も多数出たという。

結局、ストライキは労働者側の敗北に終わり、サッチャー政権の民営化政策は加速度を増していく。

 

映画の中で、ビリーの付き添いでオーディションの面接にのぞんだ父親が、居並ぶ試験管から職業を聞かれ「炭鉱で働いている」と答えると、面接を終えて部屋を出ようとする父親に試験管はこういって見送る。

「ストが成功するといいですね」

国民の中にもサッチャーの冷酷な合理化政策に批判的な声があったことがわかるシーンだった。

 

ついでにその前に観た映画。

民放のBSで放送していたインド映画「マニカルニカ ジャンシーの女王」。

2019年の作品。

監督ラーダ・クリシュナ・ジャガルラームディ、出演カンガナー・ラーナーウト(彼女は共同監督も務める)、ジーシュ・セーングプタ、ダニー・デンゾンパほか。

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インドで戦う女王として語り継がれ、“インドのジャンヌ・ダルク”といわれるマニカルニカ(のちの王妃ラクシュミー・バーイー)。イギリスの支配に抵抗する1857年から58年にかたけてのインド大反乱(かつて学校ではセポイの反乱と教えられた)を背景に、気高き騎乗の王妃の生涯を描く歴史スペクタクル。

かつてインドにはムガル帝国があったが、列強各国のインド進出によって次第に衰退していった。アジア各地の植民地経営や交易に従事していたイギリス東インド会社ベンガル州を会社領とし、それ以後、各地を征服していって19世紀半ばには全インドを支配下においた。この間の激しい収奪ときびしい弾圧に対するインド人の反感は1857年から58年のインド大反乱となって爆発。直接統治に乗り出したイギリス政府は東インド会社を廃止してイギリス国王自らがインド皇帝を兼ね、インドを完全に植民地化した。インドがようやく独立を勝ち取ったのは第二次世界大戦終結から2年後の1947年だった。

 

幼いころから剣や乗馬に親しみ、その勇敢さが知られるようになっていたマニカルニカ(カンガナー・ラーナーウト)は、北インド中部にあるジャンシー藩王国(イギリスの従属下にあった王国を藩王国と呼ぶ)の大臣の目に留まり、藩王マハラジャ)のガンガーダル・ラーオ(ジーシュ・セーングプタ)との縁談が決まる。藩王は嫁いできたマニカルニカにヒンドゥー教の美と富と豊穣・幸運の女神ラクシュミーにあやかりラクシュミーの名を与える。人々も若い王妃に親しみを込めて、女性に対する愛称である「バーイー(bai)」をつけて彼女を「ラクシュミー・バーイー」と呼ぶ。

しかし、授かった王子が亡くなり、ほどなくして藩王が病死するというジャンシー藩王国の危機に乗じて、イギリスは嫡子がいないことを口実に藩王国を併合。ラクシュミー・バーイーは城を追われるが、1857年に勃発したインド大反乱で彼女も国と民のために立ち上がり、イギリス軍との戦いの場へ歩を進める・・・。

 

細かいところはフィクションだろうが、全体像は史実にもとづいていて、ラクシュミー・バーイーはその際立った美貌だけでなく、民衆を惹きつけてやまないカリスマ性と優秀な戦術能力を備えていて、名声が高かったという。

1947年に独立を達成したインドの初代首相ネルー は著書の中で「(彼女の)名声は群を抜き、今もって人々の敬愛を集めている」と記しているほどという。

インド大反乱といういい方はイギリス側の呼称で、インドの側からは第1次インド独立戦争と呼ばれていて、ラクシュミー・バーイーは23歳の若さ(29歳ぐらいとの説もあり、諸説あり)で指導者の一人となり、数千人規模の歩兵隊、騎兵隊を率いて大英帝国軍と交戦。馬に乗り、手綱を口にくわえ、二刀流で戦ったと伝えられている。

一度はイギリスに併合されたジャンシーに再び戻ったラクシュミー・バーイーは、民衆からの推戴を受けて執政となり、ジャンシー城を奪還して反撃ののろしを上げる。城が落城する1858年まで抵抗を続けるが、落城直前にわずかな手勢とともに城を脱出。別の城に移ってそこを拠点に戦いの先頭に立つが、前線での戦いのさなかに戦死したという。