善福寺公園めぐり

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四国の旅/その2 「篪庵(ちいおり)」に泊まる

四国の旅のつづき。

旅の1日目に訪れたのは、四国のど真ん中にある日本三大秘境の1つ、祖谷(いや)。

ちなみにほかの2つは、岐阜県白川郷と宮崎県椎葉村だとか。

祖谷での昼食は「古式・そば打ち体験塾」で。

そば打ち体験もできるが、食べるだけでもOK。

山菜料理と出来立てのそばがセットで出てくる。

この日のメニューは、祖谷そばに、ハリキリ・ウドの芽・りんごの天ぷら、ニンニクの芽、コンニャク、フキ佃煮、梅三杯酢漬、鹿肉唐揚げ、いけ梨甘露煮、雑穀ご飯。そして、あわ番茶。

塾長?というか女将さんの都築(つづき)麗子さんからお話をうかがった。

都築さんによれば、自然にめぐまれた祖谷は野草の宝庫なのだという。ナルホドとうなずいて聞いていると、かつて徳島大学で薬学を教えていて、薬草の研究家でもあった村上光太郎氏と親しく、村上氏からいろいろアドバイスをしてもらっていたと知って驚いた。

なぜなら、20年ほど前になるが、村上氏から野草や薬草の話を聞きたくて徳島大学に出かけて行ったことがあるからだ。

村上氏によれば、野菜は薬効成分を含む薬草でもある。それなのに、今の品種改良は作りやすさばかりを追求していて、体によいものをという視点がない。ミネラルが欠乏した農地で野菜が栽培されるものだから現代人はミネラル不足になっている、と警鐘を鳴らしていた。

村上氏を知っているというと、都築さんは気をよくしたのか、食べ終わったわれわれにそばの実を粉にするときに歌う「祖谷粉ひき節」を歌ってくれた。

石臼を使っての粉ひきは重労働。少しでもいい粉がひけるようにとの願いを込めた労働歌なのだろう。

こんな歌詞だ(一部です)。

 

嫁じゃ嫁じゃと 嫁のなしょォたてな~よ
かわい我が子もう 人の嫁よ
サア ヨイヨイ ヨ

 

その昔、お祝いごとがあると嫁と姑が夜なべをして石臼で粉をひいたという。仲がいいと風味のいい粉ができ、仲が悪いとしゃくり引き(自分の方に引っ張る)するものだから荒い粉となり、いい味が出ない。仲よくしないといいそばも出来ないよと歌っているのだろう。

それにしても都築さんの歌声の美しいこと。

思わず録画した。

youtu.be

 

あとで店内の壁に掛けられていた額を見たら、何と彼女は「粉ひき節日本一大会」の優勝者だった。

「平家伝説」が残る祖谷では秋になると「祖谷平家まつり」が開催されていて、そこでのイベントの1つとして祖谷の民謡を後世に伝えていこうと「粉ひき節日本一大会」が行われていて、全国からの参加者があるという。

なるほど、いい声のはずだ。

帰るときには都築さんが出口まで見送ってくれた。

 

見上げると、電線の上でいい声で鳴いているのはキビタキか?

都築さんの歌に触発されたかな?

祖谷に残る「平家伝説」や祖谷の暮らしの様子がわかるというので東祖谷歴史民俗史料館に立ち寄る。

平教経(のりつね、祖谷の地では幼名の国盛を名乗ったという)の子孫にあたる阿佐家に伝わる平家ゆかりの赤旗のレプリカが展示してあった。

平家物語」では教経は享年26で壇の浦で戦死したことになっているが、別の史料によれば生死がはっきりしていないのは事実らしい。

祖谷で伝わっているのは次のような伝説だ。

安徳天皇とともども四国に落ちのびた教経は、水主村(現在の香川県東かがわ市)に潜伏したあと、山を越えて祖谷の地に入り、名を幼名の国盛に改めた。

国盛は祖谷を開拓し平家再興を図ったが安徳天皇は9歳で没し、やむなく祖谷に土着。20年ののちに亡くなったという。子孫は阿佐姓を名乗り、今も平家の赤旗を伝えている。

ほかにも、安徳天皇の火葬場跡とか、平家の鉾を納めた鉾神社、国盛が植えたとされる鉾杉、自分の名を知らせないため墓石に名を刻まない伏せ墓、安徳天皇が再興を願って天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を納めたという剣山、などなどの史跡が残っているという。

 

祖谷街道から見た「ひの字渓谷」。

V字型に深く切り込んだ渓谷が「ひ」の字に見えるというのでこう呼ばれ、ミシュラングリーンガイド2つ星の絶景。

流れる川は吉野川徳島県を西から東に流れる一級河川で、谷間を縫って山を下りながら美しい峡谷をつくり、途中、奇怪な岩場を形成しつつ、下流には広大な徳島平野を作り上げ、流域に肥よくな土壌をもたらす。

流域ごとに移り変わる景観の素晴らしさから「四国三郎」とも呼ばれる。

よく見ると川はエメラルドグリーンに見える。

祖谷特産の緑色片岩の色を映しているのだろうか。

 

祖谷は温泉地としても知られていて、その1つ、「和の宿 ホテル祖谷温泉」で温泉に入ることにする。

日本秘湯を守る会会員の宿。

建物は渓谷の上に突き出るように立っている。

源泉かけ流しの露天風呂には時間にして5分ほどのケーブルカーで下におりていく。

一気に吉野川の近くまで下っていって、露天風呂から見る渓谷の眺めが絶景だった。

次にきたときにはこの宿に泊まりたいぐらいだ。

 

温泉で疲れを癒したあとは、東祖谷の釣井というところにある今晩の宿へ向かう。

めざすは、江戸時代中期の元禄年間(1688‐1704年)に建てられたという古民家「篪庵(ちいおり)」だ。

赤穂浪士の吉良邸討ち入りが元禄15年(1702年)。その時代に建てられ、今も住める家となっていて、東祖谷の釣井集落に現存するもっとも古い民家の1つという。

なぜここに泊まることにしたのか、それについては、「美しき日本の残像」(新潮社)や「犬と鬼」(講談社)などの著書で世界的に知られる東洋文化研究家のアレックス・カー氏について触れなければいけない。

 

カー氏は6歳のときからお城に住むのにあこがれていたが、一番好きだったのが日本の家だったという。

アメリカに生まれ、12歳のときに父親の仕事の関係で来日。エール大学で日本学を専攻し、1971年の夏、日本1周の旅に出る。ヒッチハイクをしながら北海道から九州までまわり、旅の途中に知り合った友人から「あなたがきっと好きになるところに連れていってあげる」といわれてやってきたのが祖谷だった。

祖谷に惚れ込んだカー氏が1973年に購入したのが、のちに「篪庵」となる古民家だった。

彼は1952年の生まれだから、21歳のときだ。

すでに空き家になっていて、120坪の土地は38万円、家屋はタダということだったが、学生だったカー氏は借金してこの家を購入。大変だったのは茅葺き屋根の葺き替えで、2回目の葺き替えのときには仕事の日当も含めて1200万円もかかったという。

しかし、そこで住み暮らすうちに地元の人たちとも仲よくなり、家に名前をつけようということになって、カー氏がフルートを吹くので「フルートの家」を意味する言葉を探しているうち、漢和辞典に「竹の笛」を意味する「篪(ち)」という言葉を見つけ、「篪庵」の名が誕生した。

以来、カー氏は日本の自然・街並みの破壊や風土文化の衰退に警笛を鳴らし続ける活動を行っているが、300余年の年月を経て今も現存する茅葺き民家を現代に伝えたいという思いから一般向けの宿泊施設として活用していて、われわれも泊まることができた。

 

「chiiori」の看板を見ながら細い道を少し下っていく。

山の斜面を切り開いたところに建つ「篪庵」。

大きさは8間×4間(14・4m×7・2m)ほど。祖谷では最大規模という。

中に入ると、間取りは大きな座敷、居間、小さな寝間が2つと台所。台所や浴室、トイレなど水回りは大規模に改修されて使いやすくなっているが(何しろコロナ前は日本人より外国人の利用の方が多かったのではと思う)、そのほかは300年前のまま。

昔、座敷は宴会や特別な来客以外にはあまり使われず、家族は居間の囲炉裏を囲んで過ごしていたんだとか。

これだけの広い空間。1棟丸ごと1組に貸し出すので、ふだんは大人数の利用が多いだろうが、運よくわれわれ3人が1棟を独り占めできた。

ここにはスタッフは常駐してなくて、受付のときだけ管理運営する篪庵トラストのスタッフがやってきて利用法やカギの開け方を教えてくれ、あとは利用者が自由気まま、勝手に使う。

 

板張りの床に2つの囲炉裏。屋内は300年の間、囲炉裏の煙に燻され黒く光り、中でも太い桁と梁が印象的だ。

照明も蛍光灯は一切なく、行灯と、囲炉裏の炭火の明かりだけ。

 

畳のない、板張りの床が特徴的だ。

カー氏は、日本のインテリアは畳と切り離せないと信じている人も多いが、決してそうではない、と「美しき日本の残像」で書いている。

たしかに、絵巻物などを見てもわかるとおり、平安時代まで寝殿造の床は板張りで、貴人は1枚の畳の上に座っていた。主たる生活は板の上で、畳はあくまで仮設的なものだった。

エライ人でもそうなのだから、ふつうの農民に畳を敷くゆとりはなく、板の間に何か敷く必要のあるときはムシロやゴザを敷いていたという。

そしてカー氏はこう述べるのだ。

「板の床を朝晩拭くのが習わしになっています。そのため床はピカピカに黒光りして、能舞台のようにスッキリとしています。畳を敷くと、間取りがとはっきりと見えてくるので部屋が狭く見えますが、黒い板の間は、縁どりも、区切りもないので無限の広さを感じさせてくれます」

 

墨で書かれた「篪庵」の文字。カー氏の筆によるという。

 

夕食は、自炊もできるがケータリングをお願いした。

三段重ねの「遊山箱(ゆさんばこ)」。野山に遊びに行くときに持っていく弁当箱で、この地域の伝統工芸品だそうだ。

ほかにもご馳走がいっぱい。

途中の道の駅で購入した日本酒を飲みながら、楽しいときをすごす。

食後、庭に出て夜空を見上げると、満天の星だった。

(つづく)