善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

大野更紗 『困っているひと』

大野更紗さんの『困っているひと』を読む。

ミャンマービルマ)の難民問題を研究し、現地にまで出かけていってNGOの活動にのめり込んでいた著者(当時24歳の大学院生)はある日突然、難病に襲われる。あちこちの医療機関を、それこそ難民のごとくまわりまわった末、「筋膜炎脂肪織炎症候群」「皮膚筋炎」という自己免疫疾患と診断される。
その彼女の闘病記、というよりトービョー記。闘病を、これほど明るくユーモアに満ちて書けるとは、よほどシンの強い人なのだろう。

読み手としては、病気との格闘は大変だろうけど、彼女を取り巻く人々とのエピソードに関心がいった。
「困っているひと」とは、もちろん難病に見舞われた著者その人であろうが、同時に彼女を物心両面で助けようとしているまわりの人々でもあるのではないか。本を読んでいてそう思った。

人を助けるというのは、なかなか大変なことなのである。
これは病気に限らず何でもそうなのだが、何かを支援しようというとき、どこまで真剣に、労を惜しむことなく、徹底的に奉仕の心で、支援のために働き続けることができるのだろうか。

支援される側としては、もっとあれもしてほしい、これもしてほしいと思う。困っているんだから、助けを求めるのは当然のことだし、そこに手をさしのべるのも、同じ社会に生きるものとして当然、行うべきものだろう。

しかし、求める側と求められる側がうまく波長が合えばいいが、温度差ができるとムズカシイ問題も起こる。

本書でも、最初は「何でもするよ」と言っていた友人たちは、とても付き合いきれないと去っていった。
田舎(ユーミン谷とかいう福島の山の中)に暮らす両親との距離は、あまりに遠い。
信頼していた医師とも、結局はわかり合えないもどかしさを感じる。

支援者とは、概していっときの通りすがりの人にすぎない。ちょっと善意をほどこして、それで満足して去っていってしまう。もちろん熱心な人は多いだろうが。

『困っているひと』の彼女の場合、彼女を救ってくれたのは、同じように難病とたたかう若い男性の存在だった。彼に恋をしてしまったのである。だから、彼女を救ったのは「恋」だったかもしれない。これは強力な援軍だ。

マザー・テレサの献身的な貧者救済も、もちろん熱心な宗教心にもとづくものに違いないだろうが、根底には愛があったと思う。最愛の人とか、1人、2人への愛ではなく、彼女のまわりにいるすべての人への深い愛である。

さらにいえば、人を愛する気持ちを持った人は強い。同様にして恋をする人も……。