善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

きのうのワイン+映画「素敵な歌と舟がゆく」「クイック&デッド」

イタリア・シチリアの赤ワイン「パルヴァ・レス・ネロ・ダーヴォラ(PARVA RES NERO D’AVOLA)2022」

(写真はこのあとメインの豚肉料理)

シチリアの老舗ワイナリーであるカルーソと、最新テクノロジテーを導入して投資するミニーニの共同経営によるワイナリー、カルーソ・エ・ミニーニのワイン。

ネロ・ダーヴォラというシチリア原産の土着品種を100%使用。

飲みやすくてジューシーな味わい。

 

ワインの友で観たのは、民放のCSで放送していたフランス・スイス・イタリア合作の映画「素敵な歌と舟がゆく」。

1999年の作品。

原題「ADIEU,PLANCHER DESVACHES!」

監督・脚本オタール・イオセリアーニ、出演ニコ・タリエラシュヴィリ、リリー・ラヴィーナ、オタール・イオセリアーニ、フィリップ・バス、ステファニー・アンクほか。

ジョージアトビリシ出身のイオセリアーニ監督が、パリに暮らす人々の人間模様を描いた作品のデジタル・リマスター版。

 

パリ郊外の豪邸に住む裕福な一家。派手でパーティ好きな実業家の母(リリー・ラヴィーナ)と、お酒が大好きな父(オタール・イオセリアーニ)の間には、まだ小さくてかわいい3人の娘たちと息子のニコラ(ニコ・タリエラシュヴィリ)がいる。

ニコラは毎朝スーツ姿で家を出るとボートに乗り込み、ラフな服装に着替えながらパリ市内へ向かう。そこで皿洗いのアルバイトをしたり、カフェで働くポーレット(ステファニー・アンク)に恋したりと気ままにすごしている。

ポーレットにはほかにも言い寄る男がいて、それは拾ったネクタイでおしゃれして、借り物のハーレー・ダヴィッドソンを乗り回す鉄道清掃員の青年(フィリップ・バス)。

登場人物たちは、パリを舞台に自由な時間を生きていくが、やがてニコラは持ち前の好奇心が災いして思わぬ事件に巻き込まれてしまう・・・。

 

かつてはグルジアと呼ばれたジョージアトビリシ出身のイオセリアーニ監督は、もともとジョージアで物質文明を批判するなど社会風刺と反骨心たっぷりのユーモアを織り交ぜた映画をつくっていた。しかし、当時ジョージアソ連の一員であり、作品が次々と公開禁止となった。このため1979年フランスに移住。祖国への想いを抱きつつ、パリを中心に映画づくりを行うようになり、2023年89歳で没している。

彼の映画づくりの特徴のひとつが、役者に素人を起用することが多い点だろう。

その理由について監督は、2007年に来日したときのインタビューで次のように語っていてナルホドと思った。

「人間はみな生まれつき自然に俳優ですが、職業としてプロの俳優になる人は危険です。彼らは人間としての個性を消そうとします。ノーマルに生きていない、常に演じ続けているのです。ですから、私はノーマルな人々と仕事をするのが好きです。人間各々の中にはアーティスト的な部分が隠れていますから、少しだけ演技指導さえすればよいのです」

本作においても、出演者の多くがジョージアの出身者で、しかも素人(フランス語のセリフなので、フランス語堪能の役者が吹き替えを担当している)。

主役の一人、ニコラを演じるニコ・タリエラシュヴィリは監督の孫だし、2人の男から言い寄られるカフェの娘ポーレット役のステファニー・アンクは、監督行きつけのカフェのウェイトレスで、本作が映画初出演。ほかにも、監督の知り合いという人がいろんな役で出演している。

派手でパーティ好きな実業家の母の役で出ているリリー・ラヴィーナも映画初出演。彼女は劇中でシューベルトの歌曲集「美しい水車小屋の娘」の第一曲「さすらい」を歌っていて、おそらく歌が上手なので監督から声がかかったのだろう。

極めつけは、酒と歌が好きな好色の父をイオセリアーニ監督自身が演じていること。「歌えて人間臭さのあるジョージア系の役者を見つけられなかった」という理由で、「それなら私が」と自ら出演を買って出たようだ。

 

音楽が効果的に使われているのも本作の特徴。

本作で歌われたシューベルトの歌曲集「美しい水車小屋の娘」はミュラーの詩に作曲したもので、希望に満ちあふれた粉挽き職人の若者がさすらいの旅に出て、叶わぬ恋を経験して自ら命を絶つ、という物語だが、本作で歌われるのは第一曲、若者が旅に出る「さすらい」。映画のラストで、酒好きの父が豪邸を抜け出して小舟に乗り込み、何処とも知れず旅に出る情景が描かれていて、本作のテーマが「さすらい」であることがこの歌からもよくわかる。

ちなみに原題の「ADIEU,PLANCHER DESVACHES!」とは、船乗りの言い回しで「さらば、陸(おか)よ!」という意味だそうで、要するに「さらば、住み慣れたわが家よ」ということだろうか。

2人の若者が1人の娘に恋するカフェの場面で流れるのが、フランツ・レハールオペレッタメリー・ウィドウ」の中の「メリー・ウィドウ・ワルツ」だ。花の都パリを舞台に、大富豪の未亡人に国の命運を賭けた紳士たちが繰り広げる恋の騒動を描くのが「メリー・ウィドウ」。この曲も何となく暗示的だ。

オセリアーニ監督は、映画監督をめざす前の若いころ、トビリシ国立音楽院に学んで作曲科やピアノ科の学位をとったほどの人なので、音楽についての造詣も深い。それだけに、映像だけでなくバックを流れる音でも物語を表現しようとしているのではないだろうか。

 

本作の“もう一人の主役”といっていいのが、豪邸の女主人が飼っているペットのアフリカハゲコウ。コウノトリの一種だそうだが、豪邸の場面で随所に登場し、その存在感が格別。イオセリアーニ監督はこの鳥に哲学者を象徴させたと語っているというが、たしかに鋭い眼光でゆったりと歩く姿はどこか哲学者ふうで、人間の低劣な考えなど見透かされている気がした。

 

ついでにその前に観た映画。

NHKBSで放送していたアメリカ映画「クイック&デッド」。

1995年の作品。

原題「THE QUICK AND THE DEAD」

監督サム・ライミ、出演シャロン・ストーンジーン・ハックマンラッセル・クロウレオナルド・ディカプリオほか。

復讐に燃えるガンマンに扮したシャロン・ストーンが、若きラッセル・クロウレオナルド・ディカプリオとともにジーン・ハックマン演じる悪党に挑む西部劇。

西部開拓時代のアメリカ。保安官もいない荒野の町を支配していたのはヘロッド(ジーン・ハックマン)という悪党だった。銃器店の経営者でもあるへロッドは、腕自慢のガンマンを集めて早撃ちトーナメントを開くと呼びかける。

トーナメントを翌日に控えた日、カウボーイハットの美女エレン(シャロン・ストーン)が現れ、参加を申し出る。ほかにも、ヘロッドの息子キッド(レオナルド・ディカプリオ)が父親に自分の実力を認めさせたいがために参加を希望し、逆に牧師のコート(ラッセル・クロウ)は出たくもないのにヘロッドから参加を強要される。

エレンには、町にやってきた本当の目的があった・・・。

 

西部劇の時代は終わったと思われた1990年代、「ダンス・ウィズ・ウルブズ」(1990年)「許されざる者」(1992年)が相次いでアカデミー賞の作品賞や監督賞などを受賞。西部劇ブームにふたたび火がついた。

ダンス・ウィズ・ウルブズ」は監督・製作を主演のケビン・コスナーがつとめ、「許されざる者」の監督・製作、そして主演はマカロニウエスタンで名を馳せたクリント・イーストウッドだった。

それを見て「私も同じことをやりた~い」と思ったのか、「氷の微笑」(1992年)の妖艶な演技(特に取調室で足を組み換えるシーン)で世界的に有名になったシャロン・ストーンが共同プロデューサとして名乗りを上げ、実現したのが本作だったという。

当時はカルト映画とかB級映画の監督としてしか見られていなかったサム・ライミを監督に指名したのもストーンだったし(サム・ライミは後に「スパイダーマン」シリーズを監督)、ニュージーランド出身でオーストラリアで活躍していて、本作がハリウッド映画初出演となったラッセル・クロウを発掘したのも彼女だった。本作撮影時(1993年)ラッセル・クロウは29歳の若さ。

レオナルド・ディカプリオに至っては、当時まだ新人で19歳。名前もあまり知られていなかったのを、オーディションを見て注目したストーンが抜擢。それでも製作側がためらったため、ストーンは自分のギャラからディカプリオのギャラを支払うことで起用を実現させたという。

ストーンのプロデューサーとしての眼力の凄さがわかるエピソードだが、彼女はセクシー俳優というイメージとは裏腹に、子どものころIQが154と非常に高かったことでも知られている通り、なかなか目先が利く人だったのだろう。

ただし、ラッセル・クロウレオナルド・ディカプリオの若いころが見られたうえ、ジーン・ハックマンの悪役ぶりも見応えがあったものの、如何せん、長いコートが風になびくガンマンの出立ちとか、カウボーイでもないのにブーツの踵についた拍車をジャラジャラさせたり、撃たれたジーン・ハックマンの胸にホントに風穴があいたり、撃たれたと思ったシャロン・ストーンが大爆発を起こしたダイナマイトの煙の中から現れたりなどなど、いずれもマカロニウエスタンのパクリというか二番煎じふうだったのにはガックリ。

 

ちなみにタイトルの「クイック&デッド」とは、直訳だと「素早さと死」だが、意訳すれば「早撃ちだけが生き残る」とでもなるのか。

しかし、ジーン・ハックマンの悪党が支配する町の名「リデンプション」とは「贖罪」を意味していて、聖書にも出てくる慣用句としての「THE QUICK AND THE DEAD」だと「生者と死者」となり、どちらも神に裁かれる運命にあるのかもしれない。