第2次世界大戦時に日本軍を鼓舞したという「ファナティシズム(熱狂)」と呼ばれる伝説のトランペットを偶然、手に入れたジャーナリストの山峰は、謎の組織から追われることになる。
話はドイツや日本を舞台にしたサスペンスタッチの逃亡劇に始まり、潜伏キリシタンから明治まで続く日本のキリスト教弾圧、第2次大戦下のフィリピンでの天才トランペッターが綴る悲惨な体験と、時空をまたいで展開していく。逃亡者・山峰とベトナム人女性アインの恋や天才トランペッターと許嫁との悲しい別れといった“純愛物語”も折り込まれ、おそらく史実も丹念に調べた上で書かれているのだろう、500ページにのぼる大作だ。
このところ海外ミステリーばかり読んでいたからか、いかにも日本人作家らしい文体になかなかなじめず、最初は読むのに難渋したが、途中からおもしろくなった。
興味深かったのが、日本にキリスト教が入ってきたとき、宣教師たちがラテン語の「神の愛」をどう訳したかという下りだった。
日本語で「愛=AI(Love)」とすると性愛の要素が強く、適さないと考えた宣教師たちは、神の愛を「御大切」と訳したという。
へー、そうなのかと「広辞苑」で「御大切」を引くと、たしかに「(キリシタン語)愛」とあった。
当時は戦国時代で日本人の意識の中に「命は大切」という概念は薄かったのではないか、という。その中で、「すべての人間の命は大切だ」という意味で「愛」を「大切」と訳したのは、なかなかの名訳なのではと感じた。
「すべての人間の命は大切」とは、身分や貴賤などはあるはずもないことを意味する。つまりは「人はみな平等」ということで、当時の身分差別、貧富の差別を当然とする封建制度(資本主義社会になってからも同じだが)とは相容れない考え方だ。
宣教師たちの「愛=御大切=人はみな平等」という考え方は、日本のキリシタンの間にかなり浸透したのではないか。
日本にはすでに仏教はあったが、もともと日本の仏教は天皇・貴族のための国家鎮護を第一義として広まったものだった。鎌倉時代に法然、親鸞、一遍などがあらわれ、革新仏教が誕生した。ことに法然は従来の仏教の説教を批判し、「南無阿弥陀仏」と唱える専念念仏によって「貴・賤」「尊・卑」を問わず、だれでも平等に救われると説いた。しかし、それにも限界があり、やがて、密教の「浄・穢」観、つまり「ケガレ」の思想が広がる中で底辺にいる庶民たち(特に被差別民)は見捨てられるようになっていった。
そこに登場したのがザビエルらであり、「人はみな平等である」と説くキリスト教の宣教師らの話に人々は耳を傾けるようになっていったのだろう。
その証拠として、こんなことがあったと小説に登場するのが、江戸時代初期、将軍家光の時代の1637年に起こった島原の乱での出来事だ。
乱のさなか、死を決して籠城した一揆側から幕府側へ文を結んだ矢が飛んでくる。その矢には「天地同梱 万物一体 一切衆生 不撰貴賤」と書かれてあったという。
意味は、「天も地も全て一体。全ての人間存在に上下などない」ということだった。
「すべての人は平等である」とアメリカ独立宣言でうたわれたのが1776年。自由・平等を掲げたフランス革命が起こったのは1789年。それより100年以上も前に日本の民衆は「平等宣言」を発していたことになる。
幕府側がキリシタンを徹底的に弾圧したのは、そうした平等思想は自分たちを否定する考えであり、根絶やしにするしかないと考えたからに違いない。
小説の後半に出てくる天才トランペッター“鈴木”の手記も読みごたえがあった。
1941年から始まる手記は、トランペットというか音楽との出会いや愛を誓った女性との別れ、フィリピンでの戦場での悲惨な日々を綴るエンエン90ページにもおよぶものだが、読んでいてやめられなくなり、一気読みしてしまった。