善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

映画「沈黙-サイレンス-」とニワトリ

遠藤周作の「沈黙」を映画化したマーティン・スコセッシ監督の「沈黙-サイレンス-」を観る。
新宿の松竹ピカデリーの午前11時20分からの回だったが、人気なのか客席はほぼ満員。
幅広い年齢層で、若い人も多かった。

ハリウッド映画で、今年のアカデミー賞にもノミネートされている作品。
出演はアンドリュー・ガーフィールドアダム・ドライバーリーアム・ニーソン窪塚洋介浅野忠信イッセー尾形塚本晋也ほか。

以下はネタバレになるのでご注意願いたいが、あえて書かせていただく。

舞台は、江戸時代初期の幕府による厳しいキリシタン弾圧下の長崎周辺。
宣教師として日本に滞在していたイエズス会の高名な神学者クリストヴァン・フェレイラ(リーアム・ニーソン)は幕府に捕らえられ、イエズス会本部にはフェレイラがキリスト教を棄て、棄教したという報せが届く。
「そんなことは信じられない」と弟子のセバスチャン・ロドリゴアンドリュー・ガーフィールド)とフランシス・ガルペ(アダム・ドライバー)はフェレイラを探しに日本に向う。

2人はマカオに立ち寄り、日本人のキチジロー(窪塚洋介)の手引きで五島列島に潜入。
隠れキリシタンと暮らしをともにするが、やがて長崎奉行所の知るところとなり、想像を絶する弾圧に遭遇することになる。
2人は信者に守られ逃げ回るが、苛烈な拷問に苦しむ信者たちとともにガルペは殉教。ロドリゴは神に救いを求めるが、神は何の言葉も奇跡も与えてくれず、ただ「沈黙」するだけだった。
ついにロドリゴは捕らえられ、棄教して日本人となった師匠フェレイラと会う。

フェレイラは、日本はキリスト教にとって沼地のようなところだから、いくら布教しても根づくことはない。この国の神は太陽であり、毎日輝いている、と言う。
奉行(イッセー尾形)はロドリゴに言葉巧みに棄教を迫る。
殉教を覚悟したロドリゴだったが、拷問され悲痛な声を上げる信者の声に苦悶する。
あくまで信仰を守るのか、棄教によって苦しむ人々を救うべきなのか、究極の選択をつきつけられたロドリゴは、ついに踏み絵を踏むことを受け入れる。

夜明け前、奉行所の中庭に踏み絵が用意される。
すると踏み絵の中のキリストが語りかけてくる。
「踏むがよい。お前の痛みを分かつために私はこの世に生まれ、十字架を背負ったのだから」
ロドリゴが踏み絵を踏んだとき、ニワトリがコケコッコーと鳴く。

そして、神はロドリゴにこう語りかける。
「私は沈黙していたのではない。お前と共に苦しんでいたのだ」
キリスト教を棄てることを意味する踏絵を踏むことで、実はロドリゴは神の教えの本当の意味を悟ったのだった。

ロドリゴが踏み絵を踏んだとき、遠くでニワトリが鳴いたのが印象的だった。
これは何を意味するのか?

実は最近、「ニワトリの鳴き声」について興味をもっていろいろ調べている最中だった。

「ニワトリが鳴く」というのは原作の小説にも出ていて、聖書の中にもニワトリが鳴くというエピソードが記されているという。
「マタイ伝」には次のような記述がある。

エスは弟子たちにこういう。
「今夜、あなたがたはみな、私につまずくであろう」
すると弟子の1人ペテロはイエスに答えていう。
「たとえほかの者があなたにつまずいても私は決してつまずきません」
するとイエスはいった。
「よくいっておこう。今夜、ニワトリが鳴く前に、あなたは三度、私を知らないというだろう」
ペテロはいう。
「たとえあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは決して申しません」

やがてイエスが捕らえられたとき、弟子たちはみな逃げ去っていった。
しかし、ペテロだけは裁判が行われていた大祭司の庭の外まで行って、中の様子をうかがっていた。
すると1人の女が近寄ってきて、「あなたはイエスと一緒でしたね」と尋ねるので、ペテロは三度にわたって「イエスなんて知らない」と答え、3度目にペテロがイエスを否認したとき、ニワトリが鳴いた。
ペテロは「ニワトリが鳴く前におまえは3度わたしを知らないというだろう」というイエスの言葉を思い出して、外に出て激しく泣く。

このときの涙とは何だったのか。
エスの予言への畏敬とともに、自分の卑怯さ、弱さを知る涙だったのだろう。
エスを否認するという裏切りをしたペテロだったが、そのことを改心した彼は、自分の弱さを自覚したところから、それを出発点にしてさらに信仰を深め、のちにイエスの衣鉢を継いてキリスト教の指導者となる。
そしてローマで殉教し、ペテロの墓があるところに建てられたのがバチカンの中心である聖ペテロの寺院、すなわちサン・ピエトロ大聖堂である。

映画の中でロドリゴが踏み絵を踏むというのはまさに「マタイ伝」に出てくるところの「ペテロの否認と涙」のエピソードに対するオマージュにほかならないだろう。

ロドリゴが踏み絵を踏んだあとにニワトリが鳴く、というのが重要である。

ニワトリが鳴くというのは「間もなく夜明けですよ」と知らせることを意味する。
もともとニワトリは東南アジアから中国南部で家畜化されたといわれ、日本には弥生時代以降に中国から伝来したとされているが、中国からもたらされたときは食料としてや卵を産ませるのが目的ではなく、鳴き声で朝を告げる鳥、「時告げ鳥」としての利用が主だったといわれる。
昔は時計なんかないから、朝が来たというのは太陽が出てこないとわからない。しかし、それでは一日を始めるには遅いから、日の出前になると鳴くニワトリは時を告げる鳥として重宝されたのだろう。

天の岩戸伝説によれば、太陽神である天照大神が天の岩戸の中に隠れてしまい、世界は真っ暗になって大騒ぎとなった。そこで大神を外に迎え出すためさまざまな儀式を行ったが、「朝が来た」と知らせるためにはこの方法がよかろうとニワトリを鳴かせたエピソードが「古事記」に記されている。
つまり、「ニワトリが鳴く」というのは「もうすぐ朝だよ」と知らせる合図だったのである。
この故事に習って、今も伊勢神宮の「式年遷宮」の儀式は、神職がニワトリの声の真似をして「カケコ~」と三度唱える「鶏鳴三声」で天照大神の再来を告げるところから儀式が始まるという。

さらに話を脱線させると、万葉・平安の通い婚の時代は一番鶏が鳴くころに女の家を出るのがエチケットだったようだ。
一番鶏が鳴く時とは何時ごろかというと、「日本国語大辞典」(小学館)によれば「普通、八つ時(午前二時頃)に鳴くとされる」
橋本万平という学者が書いた「万葉時代の暦と時制」にも、一番鶏が鳴く時刻というのは案外早く、夜明けより2時間余りも前であるといっている。一方、「暁」というのはほぼ寅の刻頃(午前4時前後)で、まだ夜の闇につつまれた暗い時間が「暁」だった。

伊勢物語」には次の記述がある。
「むかし、男、あひがたき女にあひて、物語などするほどに、鶏の鳴きければ、いかでかは鶏の鳴くらむ人知れず思ふ心はまだ夜深きに」

ここでも鶏鳴は男女の別れの時を示す合図だったが、それがまだ「夜深き」時間であることがわかる。

鶏鳴がなぜ男女の別れの時の合図だったのか。
本来、夜の世界とは神や妖怪の世界であり、人が動き回ったりするのは許されない世界だ。しかし、男女が契りを結ぶという大事な行為があるがゆえに、人間はその時間の出会いが許された。
そして鶏鳴によって神の世界の終りを告げるとともに、男女の逢瀬も終わらなければならなかったのである。
ニワトリが鳴くのは、一日のうち、神や妖怪の時間の終わりとともに人間の時間の始まりを知らせたのであろう。

折口信夫は、日本の伝統的な祭りの中心が真夜中にあること、鶏鳴がその行事の終わりとほぼ対応していることを指摘した上で、この鶏鳴こそが神の世界と人間の世界との境界を示すものであり、祭りの場に来臨した神はこれを合図として神の世界に帰還する定めになった、と説いている。
(元東大教授の多田一臣「古代人と夜」より)

「沈黙」においてニワトリが鳴いたのも、単に朝が来るという意味ではなく、ロドリゴの新しい人生(信仰)がそこから始まることを意味していたのではないだろうか。

映画を見たあと、いつも行っている映画館近くのそば屋に行ったら、ナントシャッターがおりていて、もはや廃業しているようだった。
隣の店で牡蠣のスンブドを食べて帰る。
イメージ 1