善福寺公園めぐり

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『枕草子』の歴史学

五味文彦『「枕草子」の歴史学 春は曙の謎を解く』(朝日新聞出版)を読む。

題名にひかれて手にとったが、「春は曙・・・」の書き出しとか、清少納言という女性の存在ぐらいは知っていても、『枕草子』なんか読んだことがなかった当方にとって、「へー」と思うことがいろいろあった。

まず、驚いたのが『枕草子』という題名について。
枕草子』巻末の「跋文(あとがき)」によると、当時、清少納言一条天皇中宮、つまり奥さんの定子に仕えていて、内大臣藤原伊周(定子の兄でもある)が、天皇夫妻にそのころはまだ高価だった料紙を献上した。そこで、天皇に献上された紙には中国の『史記』が書かれることになったが、「こちらは如何に?」と中宮からの下問を受けた清少納言は「枕こそ侍(はべ)らめ」と申し出て、書かれたのが『枕草子』。
では、ここで清少納言がいう「枕」とはどういう意味か? というので諸説入れ乱れる議論が今日まで続いていて、次の4つの説がある。

①備忘録 備忘録として枕元にも置くべき草子という意味ととる説
②題詞 歌枕・名辞を羅列した章段が多いため、「枕」を「枕詞」「歌枕」などの「枕」と同じく見て、内容によって書名を推量した説
③秘蔵本 枕の如く人に見せようとしない秘蔵の草子とする説
④寝具 「しき(史記→敷布団)たへの枕」という詞を踏まえた洒落とみる説

以上のうち、④のしき→敷布団だから枕というのはマズあり得ないな、と思ったら、五味氏が一番注目しているのは④の「洒落説」だというから恐れ入る。清少納言は洒落のわかる人だったらしい。
というよりむしろ、昔は洒落は言葉にとっての王道だったのだろう。

しかし、筆者はさらにこう書く。

「しき」の連想から浮かぶのは何かといえば「四季」もある。清少納言は「しき」にあやかって、四季を枕に書いてみましょう、と答えたのではなかったのか。
ま、これも洒落説の1つといえる。

そして筆者は敷布団→枕の連想も忘れない。
「春は曙」の春のあの風景は、枕を交わした男との逢瀬のあとの景色ではないか、と推論する。
そう考えると、夏は夜、秋は夕暮れ、冬はつとめて、の風景も、恋する人とともに見た風景を楽しんでいる様子ではないか、といっていて、ナルホド「春は曙の謎を解く」の副題どおりでおもしろい。
実は『枕草子』は艶っぽい本だったのだ。

本書を読むと、宮中での雅びというか、夢のような暮らしぶりがよくわかる。
あるとき、清少納言清水寺に長期間参籠した。寂しくなった中宮は歌を詠んで使いに持たせた。

山ちかき入相の鐘の声ごとに こふるこころの数はしるらん
(山近い夕暮れの鐘は多く聞くが、その音ごとに、そなたが恋しく思うわたしの心はわかっているでしょう)

歌の脇には「格別な長逗留よ」と添え書きがあった。
参籠中で紙の用意がなかった清少納言はどうしたか。近くに咲いていたハスの花びらに返事を書いて届けたという。なんと風流な。

昔の貴族は、目的もなしに出かける「散歩」もしたようだ。(といっても歩くのではなく、牛車に乗ってだろうが)
清少納言もたまたま外出したときの風景を書いていて、

きよげなる男の、細やかなるが、立文(たてぶみ)もちていそぎいくこそ、いづちならんと見ゆれ。
(きれいなほっそりした男が、立文を持って急いでいるのに出会うと、どこの家に行くのか、と目にとまる)

中世においても、やせてスッキリ系の男が好まれたようだ。ダイエットしよう。

百人一首』に載っている清少納言の歌がいかにしてつくられたかの話もおもしろい。

清少納言は、大納言の藤原行成(なかなかの才人で、小野道風らとならぶ三蹟の一人といわれる)と仲がよく、彼女が32歳ごろで行成26歳ごろのとき、内裏の彼女の部屋で話し込んでいた。
夜も更けて、「明日は宮中の御物忌みがありますから」と行成は帰っていった。

翌朝、彼から手紙がもたらされ、「今日は心残りがします。夜通しで昔話をするところでしたが、鶏の声にせきたてられてしまいました」という文面だった。
何しろ三蹟の一人からの手紙だから清少納言はそれをほれぼれと見つめ、早速、返事を書く。
「たいそう夜更けに鳴いた鳥の声は、中国の孟嘗君のそれでしょうか」

すると行成から返事がきて、「孟嘗君の鶏は、函谷関を開いて、三千の食客をやっと逃れさせたというが、これは逢坂の関のことですよ」と返してきた。

そこで清少納言は「夜のまだ明けないうちに鶏の声でだませても、ここは逢坂の関ですからだまされて許すようなことはしませんよ」という内容の歌を詠んで、しっかりした関守がいますので、という詞を添えて返したという。その歌が『百人一首』の次の歌だ。

夜をこめて鳥のそらねははかるとも 世にあふさかの関はゆるさじ

何度も手紙の返事を運んだ使いの人も大変だったろう。

宮中びとがいかに庶民とは無縁の、空中楼閣に暮らしているかがわかる話も『枕草子』にはある。
賀茂神社に参詣に行く途中、女たちの田植えの風景を見た清少納言はこう書く。

賀茂へ参る途中に田植えが行われていて、女が新しい折敷のような笠を被って多くおり、歌を歌っていた。体を曲げるように、何事をするようにも見えないのだが、あとずさっていく。何をするのであろうか、おもしろいなあ、と思って見ているうちに、ホトトギスのことをとてもぶしつけに歌うのを聞いたのは、とても不愉快だった。

女たちが田植えをする姿を見て、「何をするのであろうか」とは、清少納言は毎日、ごはんは食べていても、ごはんがどうしてつくられるのかを知らなかったのだろうか?

そして、彼女が不愉快に思った働く女たちの歌は、「ホトトギスよ、お前が鳴くから我は田植えをしなければならぬ」と歌う恨みの歌だった。

労働歌とは、もともとつらい労働を喜ぶものではなく、恨みの歌、呪う歌であっただろう。歌うことで仕事のつらさを紛らわせていたに違いない。
子守歌だって、『五木の子守歌』は「おどんが打死(うっちん)だちゅて 誰が泣いてくりゅきゃ 裏の松山 蝉(せみ)が鳴く」と世を恨んでいる。
盆踊りで有名な郡上踊りで歌われる『かわさき』はもともと田植え歌だったといわれ、「郡上のナー八幡 出ていくときは 雨も降らぬに袖しぼる」と別れのつらさを歌っている。

百人一首』にはない世界かもしれない。