善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

19年ぶりの再会

月曜日朝の善福寺公園は快晴。きょうも暑そうだ。
あたたかくなって虫が這い出す季節になり、下池ではムクドリたちがかしましい。

池の遠くのアシの間から、バンの親子が顔をのぞかせていた。
子バンは少なくとも2、3羽はいるみたいだが、すぐに奥に引っ込んでしまい、親鳥しか写真に撮れない。
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それでもほんの一瞬だが姿をとらえられた。
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きのうの日曜日のこと。19年ぶりに再会を果たした人がいた。
19年前に初めて出会い、きのうお会いしたのは2回目だったが、長年親しく接してきたように話がはずみ、旧交をあたためた。

19年前の1995年6月のことだった。
せがれは5歳で、保育園に通っていたが、そのころは家族で夏は毎年、沖縄に旅行にでかけていた。

6月といえば沖縄はうりずんの季節で、梅雨も明けて夏本番を迎えるころ。まだ観光客も少ないころに早々と行こうと6月のウィークデーを狙ってでかけて行った。その年の行き先は石垣島だった。
6月の、しかもウィークデーだから観光客は少ない。
たしか石垣島で泊まったのはビィラフサキリゾートとかいうコテージ風のホテルで、北部にとても美しいビーチがあって、シュノーケリングを楽しんだりした。

石垣港からグラスボートに乗ったとき、やはり本土から来たという年配のご夫婦と一緒になった。たしかグラスボートに乗ったのはわれわれ家族3人と、そのご夫婦だけではなかったか。
ふたこと三言、言葉を交わし、そのときはそれで別れたが、たしかそのあと竹富島に行ったときもやっぱり会った。(観光客が行くところといえばだいたい決まっている)

それで余計に仲良くなって、記念写真を撮ってもらったりして、住所も教えたら後日、ご主人から一緒に撮った写真を送っていただいた。

直接お会いしたのはそれっきりで、以来、毎年正月になると、せがれがご夫婦宛に年賀状を書き、向こうからも年賀状が届くという歳月を繰り返してきた。

子どもが小さいときはなるべくいろんな体験をさせたいというので、正月はほぼ海外旅行にでかけて行ったので、今年はあそこに行きました、というようなことを書くと、向こうのご夫婦も旅行がお好きらしく、われわれもどこどこへ行きました、と送ってくる。

やがて「今年から中学生です」「高校生です」というようになると、「進学おめでとう」と記念の時計を送っていただいたり、初めてお会いしてから15周年というので記念品を送っていただいたこともあった。

基本的にはせがれと、ご夫婦の年賀状のやりとりが中心のお付き合い。記念品が届いたときにお礼の電話をしたりしたが、それもせがれが自分でしたので、親はノータッチ。ご夫婦は、せがれの成長をわが子のことのように見守ってくれているようだった。

そのうちに、奥さんがご病気になったという年賀状が届いた。
何と病名は「多発性骨髄腫」。いまだ治癒の方法が見つかっていないという血液のがんで、進行すると余命もわずかという難病だ。全身の骨髄で発生し、骨を破壊するようになるので、骨の痛みや骨折を生じて寝たきりになることも多い。

奥さんのご病気がまさにそのようなもので、ある年の年賀状に「NHKの介護短歌で私の歌が紹介されます」というのでテレビを見ていると、「お別れをしてもよいかと問う妻の細き手を取りこぼれる涙」という歌が紹介されていた。

「お見舞いに行こうか」と心配していた昨年の暮れ、ご主人から「年賀状欠礼のお知らせ」がとどいてびっくりした。
奥さんが亡くなったというのだ。

これまでは年賀状での付き合いでしかなかったが、「せめてお線香でも」とご自宅にお伺いすることにし、何度か電話でお話しし、ようやく訪問したのがきのうのこと。

都内の静かな住宅地。お子さんたちはとうの昔に独立し、今はお一人暮らしというご自宅は築80年という。戦争中はこのあたりも空襲にあったものの、運よく焼けずに残ったお宅は、瓦屋根に木の柱、壁は漆喰で、風情がある。

その壁一面に、奥さんとでかけて行った時に撮った旅行の写真が所狭しと貼られてあった。

何でも、19年前、初めてお会いしたとき、ちょうどご主人が定年で会社をお辞めになった直後で、「これから夫婦で旅行でも楽しもう」と、最初に旅行にでかけたときのことだったという。

19年間、年賀状のやりとりしかしていなくても、積もる話はたくさんあり、思い出話に花を咲かせたのであった。
今もご主人は亡き奥さまと会話しているという。
きのうの夜は、われわれの訪問の話で奥さまとの会話が弾んだだろうか。