善福寺公園めぐり

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好奇心が育む天文学 「江戸の宇宙論」

池内了(さとる)「江戸の宇宙論」(集英社新書)を読む。

池内了は日本の天文学者、宇宙物理学者。

今や日本の天文学ノーベル物理学賞を得るまでになっているが、そのルーツは江戸時代に在野で活躍した「天才たち」の功績にまでさかのぼる、と本書ではいっている。

その天才たちとは、お上(政府、権力者)御用達の学者(アカデミアの人間)ではなく、オランダ語通訳崩れの翻訳家であり、金貸しの番頭であり、絵師という市井の人々だった。

彼らは、科学を国威高揚のために極めようとするのではなく、むしろ「愉しみ」や「遊び」、知り得たことを人に「知らせたい」という思いで天文・宇宙の世界に入って行った。それゆえにこそ発想も自由で豊かであり、「19世紀初頭、実は日本の天文学は驚くべき水準に達していた」としている。

知られざる「天才たち」の活躍を通して当時の「宇宙論」の先見性を再評価したのが本書だ。

 

たとえば、「重力」「遠心力」「真空」など現在でも残る数多くの用語を生み出したのが長崎の蘭学者の志筑(しづき)忠雄。彼はオランダ語の見習い通訳つまりは通詞になったもののしゃべるのが得意でなくて翻訳家に転じた。

「天動説」「地動説」という言葉を発明したのも志筑だった。

「無限の広がりを持つ宇宙」の姿を想像し、宇宙人の存在さえ予言したのは、金貸しを業とする豪商の番頭・山片蟠桃(やまがた・ばんとう)だった。

蟠桃はまた、200年も昔に、生命誕生の条件(土・水・日光)を想定し、原始的な生命体から複雑な生物へと進化した道筋を考え、ついには人間の誕生へと至ることまでも想像していていて、「彼の思考が時代に先駆けて科学的であったことを意味する」と著者はいう。

ちなみに、ダーウィンの進化論が登場したのは蟠桃の死後40年ほどたった1850年ごろだ。

 

本書では、絵師でありながら天文学にも熱中し、人々に地動説などを紹介した司馬江漢についても触れている。

志筑にしても蟠桃司馬江漢にしても、彼らはそれぞれ通訳、商家の番頭、画家という本業を持ちつつ、好奇心の赴くままに宇宙に思いを馳せたと著者は述べていて、自然への興味や好奇心の大切さを教えてくれる一冊ともなっている。

 

ところで、「天動説」「地動説」というのはヨーロッパで使われていた原語からの翻訳造語、和製漢語だが、実に名訳だと思う。

話は飛ぶが、和製漢語で名訳だと思うものに「情報」がある。これは英語のinformationからではなく、仏語のrenseignementからの翻訳で、1876年(明治9)に出版された「仏国歩兵陣中要務実地演習軌典」で最初に使われたという。つまりもともとは軍事用語だったわけだ。

 

「天動説」「地動説」という言葉は、国民性の違いだろうか、ヨーロッパの原語、つまり学術上の名称となっている言葉とはかなり違う意味になっているところがおもしろい。

天動説の学術上の名称、つまりヨーロッパの原語は「geocentrism、ジオセントリズム」となっていて、geo(地球)のcentrism(中道主義・中心主義)というわけで「地球中心説」が正式名称だ。

同様にして地動説も「heliocentrism、ヘリオセントリズム」、すなわち「太陽中心説」というのが学術上の名称となっている。

 

しかし、志筑は「地球中心主義」「太陽中心主義」と訳すのではなく、「天動説」「地動説」という造語を生み出した。それはなぜなのか。

本書で筆者は、宗教観の違いがその根底にあるのではないかと次のように述べている。

「西洋では地球・太陽のいずれが宇宙の中心にあるかに着目して、それぞれを地球中心説太陽中心説と呼んでいた。空間の唯一の点である中心を地球あるいは太陽のいずれが占めるかを示すのだから、絶対的な視点からの呼称である。これに対し、志筑の天動説・地動説という呼称では、どちらが動いているかを表しているだけだから、優劣がつかない相対的な視点といっていいだろう。

一神教の西洋では、中心を占めて動かない絶対神の位置を重視するのに対し、絶対的な神を持たず八百万(やおよろず)の神が遍在する東洋では、どちらが動いているかに着目していると言えようか。西洋と東洋の視点の差異として興味深い」

 

ちなみに江戸時代の儒学者の帆足万里は、天動説を「静地説」、地動説を「静日説」と呼んでいた。動かない・静かなものが地球か太陽かで区別する視点で、動くものに注目した志筑とはまるで正反対の発想といえるだろう。

 

天文学とはあまり関係ないかもしれないが、本書によれば、「万葉集」には星の歌がほとんどなく、その理由として、古代の人々にとって星は人の魂が天に昇ったもの、不吉なものと見なす思想があったのではないかという説がある、と著者は書いている。

あるいは、天が地の異変を予言して天文現象として表れるとする占星術が信じられていて、人々は天の事象をおそれうやまう心が強かったのではないかともいわれている、という。

この傾向は平安末期から鎌倉時代にまで続き、七夕の歌は詠まれてもそれは地上の恋の物語に焼き直されている、と著者は述べていて、江戸時代になってやっと星空の美しさに驚嘆した歌が詠まれるようになる。この時代になってようやく星空を純粋に「愛でる」気持ちになったのかもしれない。

 

そこで気になったので調べてみたら、万葉集検索のデータベースをチェックした人がいて、たとえば「梅」でチェックすると万葉集全4516首のうち339首がヒットし、「桜」は47首。では「星」はというと33首がヒットするが、そのうち天の川の「彦星(男星・孫星)」が22首を占めていて、純粋に「星」を詠んだものは2首しかないという。

ちなみにその歌とは次の2首。

 

北山に たなびく雲の 青雲の 星離れ行き 月を離れて

 

天の海に 雲の波立ち 月の舟 星の林に 漕ぎ隠る見ゆ

 

1首目は持統天皇で、2首目は柿本人麻呂

 

平安時代勅撰和歌集古今和歌集」でも星をテーマにしたのは1首だけで、作者は紀貫之の叔父の紀有朋。

 

あひ見まく 星は数なく ありながら 人につきなみ まどひこそすれ

 

わずか1首では何とも寂しく、平安人は星を愛でなかったのかといいたいが、せめてもの救いは清少納言が「枕草子」で書いた次の一節だろう。

 

星はすばる、彦星、夕筒。よばい星、少しをかし。尾だになからましかば、まいて。