善福寺公園めぐり

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清少納言と紫式部 確執の裏に「フグ中毒事件」と「嫉妬の炎」?

池内了清少納言がみていた宇宙と、わたしたちのみている宇宙は同じなのか?――新しい博物学への招待」(青土社)を読む。

 

池内了(いけうち・さとる)は名古屋大学名誉教授で天文学者・宇宙物理学者。

これまでも「司馬江漢――江戸の『ダ・ヴィンチ』の型破り人生」「江戸の宇宙論」などを読んでおもしろかったが、本書も楽しく読んだ。

天文、物理、海の生き物、陸の生き物などとテーマは多岐にわたっているが、中でも興味深かったのが魚のフグについてのエピソードで、「清少納言紫式部の葛藤の裏にはフグ中毒があったかもしれない」という説が紹介されている。

 

源氏物語」の紫式部、「枕草子」の清少納言平安時代の同じころに活躍した2人だが、実は仲が悪かったみたいで、紫式部清少納言についてかなり辛辣に悪口を書きつらねていて、「紫式部日記」には次のような意味の記述がある。

清少納言は得意そうな顔をしてるけど我慢のならない人。『枕草子』では利口ぶって漢字をおおっぴらに書いてますけど、よく見ればまだまだ不十分な点がたくさんあります」

「彼女のように風流ぶるような人は、自然と不誠実な態度にもなってしまうのでしょう。そういう人の最期は、よくないに決まってます」

 

不幸な死に際まで予言する何とも物凄い内容だが、「紫式部日記」は宮中に上がって一条天皇の皇后(中宮)で関白藤原道長の娘・彰子(しょうし)の「女房(奥向きの女官で、紫式部の場合は家庭教師的な役目だったようだ)」として仕えていた紫式部が、1008年(寛弘5年)秋から1010年(寛弘7年)正月まで、宮中の様子を中心に書いた日記と手紙からなる。

池内氏によると、紫式部は温厚な人だったという。それなのに、なぜもこれほどまで激しい言葉で清少納言を批判したのだろうか?

紫式部が宮中に仕えるようになったのは、1006年(寛弘2年)12月、もしくは1007年(寛弘3年)の12月といわれている。一方、清少納言はそれより前の1000年(長保2年)12月に彼女が仕えていた一条天皇の皇后の定子(ていし)が亡くなってしばらくして、宮仕えを辞めてしまっている。したがって、紫式部清少納言は宮中で出会うことはなかったはずだし、紫式部にとって清少納言は宮仕えの先輩にあたるはずなのに、なぜこうも先輩に対して辛辣なのか?

 

〈2人を不和にさせた集団フグ中毒事件とは?〉

池内氏によれば、紫式部が激しい言葉で清少納言を批判した理由は、清少納言が宮仕えしていたときに書き綴った「枕草子」にあるようだ、という。

枕草子」第119段「あはれなるもの」の中に、藤原宣孝のぶたか)という貴族をヤリ玉にあげた記述があり、次のような意味のことを書いている。

藤原宣孝という人は、清潔なだけの衣を着てお参りえすれば何かいいことがあると思うのはつまらないというので、3月の末に、紫のとても濃い指貫、白い狩衣、山吹色のすごく派手な袿(うちき)を着て、息子にも派手な格好をさせて、連れ立って吉野の金峰山に参詣した。それを見て、お参りから帰る人もこれから行く人も、こんな恰好の人は今まで見たことないと驚き呆れたけれど、4月1日に帰ってきて、6月10日ごろに筑前守が辞めた代わりに就任して、目論見通りになったと評判になった。これは『あはれなること』ではないけど、ついでに書いてしまいました」

 

清少納言は宣孝の非常識な振る舞いを批判して、その派手な“演出”が功を奏して筑前守になったと皮肉っているが、実は、ヤリ玉にあがった人物、藤原宣孝こそは、のちに紫式部の夫となる人物なのである。

宣孝が派手な格好で金峰山を参詣したのは990年(永祚2年)のこと。当時、彼は41歳で、花山天皇の退位にともなって蔵人の地位を退いていて、何らかの官職を得たいと焦っていたという。そこで、就職祈願のために金峰山に向かった。

宣孝が派手な事前運動を行って2カ月もたたない同じ年(990年、年号のみが改まって正暦元年)6月、藤原知章(ともあき)という貴族が、筑前守となって筑前に赴いた。ところが、赴任して間もなく、知章をのぞいて息子や郎党の30数人が突然病死するという事件が起きた。責任をとって知章は筑前守を辞任。ときの関白道隆は、このような大事件を収拾するには常識はずれの人物でなければならないと考えたらしく、金峰山参詣のパフォーマンスで有名になった宣孝を筑前守に抜擢。宣孝はまんまと猟官運動に成功した。

宣孝の任官のきっかけとなった、知章の息子や郎党30人以上が急死した事件とはフグ中毒が原因ではないのか、という説を池内氏は紹介している。

「まだ春先の河豚毒の恐さが知られていなかった平安時代、鮮魚に乏しい京都から海の幸が豊かな筑前に赴任してきたのだ。・・・土地の人が止めるのも聞かず、喜び勇んで箸を付けた挙げ句の集団食中毒、との推理は自然である」と池内氏。

フグ中毒の失態に乗じて、藤原宣孝は漁夫の利で猟官運動に成功したというわけだが、そんな宣伝上手の宣孝と紫式部が結婚したのが998年(長徳4年)。このころは京に戻って右衛門権佐という役職に付き、山城守を兼任していて、結婚後、娘も生まれている。

宣孝は紫式部と結婚後、わずか3年で亡くなってしまうが、夫の宣孝を悪しざまに書かれたものだから、紫式部は「日記」に清少納言への恨み言を書き連ねざるを得なかったのだろう、と池内氏は書いている。

しかし、そこまで読んで、もしフグ中毒事件が本当だとして、なぜ清少納言は宣孝のことをそんなに悪しざまに書いたのか、また、なぜ紫式部は「いい死に方をしない」とまでいい切って清少納言への恨み言を書かねばならなかったのか、と疑問がわいた。

 

清少納言の父もフグ中毒死?〉

調べてみて興味深いことがわかった。

清少納言は、藤原宣孝が、フグ中毒事件を起こして辞任した藤原知章の後釜に座ったことを、かなりいまいましく思っているみたいなのだが、知章が筑前に赴任して間もなくフグ中毒事件を起こした990年6月、まさにその同じ月に、清少納言の父で肥後守として肥後にいた清原元輔も亡くなっているのだ。

同じ990年の6月に、距離も近い筑前と肥後とで相次いで亡くなるというのは、あまりにも符号が合いすぎる。

ひょっとして元輔は知章が筑前守として任地にやってきたのを祝う宴かなにかに出席していて、一緒にフグを食べて毒にあたって亡くなったのではないだろうか。そこで、フグ毒事件をいいことに猟官運動に成功した宣孝に対し、人の不幸を踏み台に出世するなんて許さないわ、とばかり、八つ当たり的に非難の言葉を投げつけたのではないだろうか。

元輔の任地・肥後は、筑前にある大宰府の管轄下にあった。新しい筑前守がやってきたというので、歓迎のために元輔が筑前まで出向いたというのは想像に難くない。

 

ちなみに、ここに登場する藤原知章は「今昔物語」にも登場する人物で、伊予守だったとき、四国に退隠流浪し乞食修行を続けていた比叡山東塔の僧・長増と知章とが出会った話が載っている(巻15の15)。

彼は藤原氏の別荘だった宇治・平等院の家司(けいし)もつとめていて、摂関家に奉仕することで受領(ずりょう)に任ぜられる「家司受領」の一人だったという。つまり、少しでも有利な官職につくため時の権力者に取り入っていたというわけで、中級官僚はつらいよ、ということか。

 

紫式部清少納言に嫉妬した?〉

もうひとつ疑問に思ったのは、紫式部は夫の宣孝の死から10年近くがたって、なぜそこまで清少納言をバッサリやらなければならなかったのか。

そこには、夫を批判したことへの反撃という以上に、「藤原道長」の影がチラついていてならない。

調べてみると、どうも清少納言道長と親密な関係があったようで、対する紫式部道長パトロンであり、慕う気持ちも強かっただろう。となると、紫式部としては「道長さま、私と清少納言のどっちをとるの!?」と詰め寄りたくなるのではないか。

宮中に上がった紫式部は、評判になっていた「枕草子」を読む機会があったのだろう。あとでも触れるが、「枕草子」はただの随筆集ではない。清少納言が仕えていた皇后定子は997年(長徳2年)12月に内親王を、999年(長保元年)に一条天皇の第一皇子・敦康(あつやす)親王を産んだのち、1000年(長保2年)2月に再び内親王を産んだ直後に亡くなっている。「枕草子」はその後に完成をみたものであり、定子の遺児たちを何とかよろしくお願いしますと、道長に懇願する思いで書かれたものであり、道長は「枕草子」の中で清少納言の「思い人」として登場している。

枕草子」は定子の死の翌年の1001年(長保3年)に一応の完成をみて、その後の加除訂正をへて完成したのと寛弘年間の1008年ごろといわれている。紫式部が宮仕えを始めてから1、2年がたっている。

それを読んで紫式部の心に嫉妬の火がつき、さらには夫への悪口を目にしてその火はさらに燃え上がり、清少納言を激しい言葉でけなしたのではないだろうか。

以下、その理由を述べよう。

 

歴史を紐解くと、摂関政治が全盛を極めたのが道長の時代だ。「この世をばわが世とぞ思ふ望月(もちづき)の欠けたることもなしと思へば」と詠んで、わが世の春を謳歌した話は有名だ。

しかし、父・兼家が摂政関白として権力を握っていたころは、彼は五男であり、有力な兄に道隆、道兼がいたため将来的にも政治のトップに立つ可能性はまるでなく、目立たない存在だったという。

990年(永祚2年)、父・兼家が死ぬと、跡を継いだのが長男の道隆だった。彼はすでに兼家存命のころから兼家の意を受けて宮中で活動。自分の娘の定子を一条天皇中宮(つまりは皇后)にする。このとき一条天皇は数え11歳、定子は14歳。

ところで、数え11歳の一条天皇にはのちの三条天皇となる居貞(おきさだ)親王という皇太子がいて、数え15歳で、天皇より年上。しかも翌991年(正暦2年)に居貞親王の妃となった娍子(せいし)が、993年(正暦3年)に懐妊したことが判明。翌994年(正暦4年)東宮の第一皇子敦明(あつあきら)親王が誕生する。

皇太子にはもはや跡継ぎの男の子がいて、かたや天皇はというと自身がまだ年少。しかもこの当時、皇統は冷泉系と円融系に分かれていて、一条天皇は円融系だったのに対して、居貞親王は冷泉系。このままでは円融系の血筋が危ないというので、後宮徳川時代江戸城でいったら大奥)の強化をはかろうと複数の女房が定子の元に集められた。その一人が清少納言で、彼女が宮中に上がったのは994年(正暦4年)の冬といわれている。

このとき、定子の女房として清少納言を推薦したのは道長だったとの説があり、定子を通じて知り合う以前から2人は見知っていた可能性がある。何しろ、このときの中宮大夫が道長だった。中宮大夫とは皇后に関する事務を行う機関の長官のこと。彼は定子の補佐役をつとめていたのだから、清少納言の採用に深くかかわっていたのは間違いない。

 

そうした経緯があるゆえか、「枕草子」には清少納言道長に好意を抱いていたことをうかがわせる記述がある。

125段の「関白殿、黒戸より出でさせ給ふとて」には、清少納言道長のことを何度も何度も話題にするものだから、定子から「例の思う人(あなたが思っている例のあの人のことですからね)」とからかわれた、と書かれているのだ。

そこには、関白家のぼんぼんでイケメンだけど、将来、摂政関白になるはずのない人だから気安く付き合えるといった雰囲気が感じ取れる。

道長が生まれたのが966年(康保3年)で、清少納言が生まれたのも同じ年といわれているから(紫式部は生没年不明ながら970年、あるいは973年の説があり、やや年下)、同じ年のころというのも気安さにつながっただろう。

ところが、父を継いで摂政関白となった道隆は大酒飲みだったらしく、関白となってからわずか5年後、享年43の若さで病死してしまう。道隆の跡を継いだ三男の道兼も、関白になってわずか数日後に病死する。

まるで棚からぼた餅みたいにして、次の摂政関白候補となったのが道長。にわかに本人もやる気満々となる。しかし、そこに立ちはだかったのが道隆の嫡男・伊周(これちか)だった。自分こそ正統の跡取りとばかり、道長と伊周は激しく争う。

伊周の妹が定子であり、彼女は当然、兄に味方する。しかし、結局は道長の勝利に終わる。兄に味方して一時、内裏を飛び出したり出家までした定子だったが、一条天皇の元に戻ったと思ったら、999年(長保元年)、入内して女御となったのが当時12歳の道長の娘・彰子だった。道長が半ば強引に入内させたといわれるが、やがて一条天皇の皇后となる。天皇が同時に2人の正妻を持つ「一帝二后」の異常事態だ。明らかに道長は定子の追い出しにかかったといっても過言ではないだろう。

どう見たって定子と道長の仲がいいわけはない。定子は生前、道長への恨みつらみを清少納言に漏らしていたのではないか。

ところが、道長と伊周が権力争いをしているとき、清少納言にスパイの嫌疑がかかってしまう。かつて彼女が道長に好意を抱いていたことが原因らしく、道長に内通しているのではと定子の周辺でウワサが立ったというのだ。

いたたまれなくなった清少納言は宿下がりして実家に引き籠もってしまう。

そのとき、たまたま定子からもらった料紙があり、それに思いつくままを書き記して気を紛らせたのが「枕草子」の始まりという。これを人にみせるうちに評判となり、次々と書きついでいったが、1000年(長保2年)に定子が亡くなると、3人の遺児は道長に引き取られて彼の娘の彰子の庇護の下に育てられることとなった。

道長といえば敵対していた相手。清少納言は3人の遺児たちへの手厚い扱いを願い、亡き定子のすばらしい人柄を筆を尽くして書き上げたのが今日に残る「枕草子」だった。

道長も当然のことながら「枕草子」を読んでいて、清少納言の願い、思いを心にとめただろう。「一帝二后」の片方の定子が亡くなったとき、もう片方の道長の娘・彰子はまだ数え13歳。ひょっとして彰子に皇子誕生がなければ、定子が産んだ一条天皇の第一皇子の敦康親王が次期天皇となるのだから、遺児たちをおろそかにはできない。

実際に一条天皇はなかなか皇子を産まない彰子に敦康親王を養わせていて、道長親王への奉仕を怠らなかったという。

 

清少納言道長の関係が浅かろうはずがないことを示すもうひとつの事実として、彼女の娘が皇后彰子に仕え、さらには彰子が産んだ第二皇子(のちの後一条天皇)の乳母にもなっていることがあげられるだろう。

清少納言の娘の名は「小馬命婦(こまのみょうぶ)」といって、仕えていた彰子の院号から上東門院小馬命婦とも呼ばれる。

小馬命婦の生没年は不明で諸説あるのだが、清少納言は981年(天元4年)ごろの15歳ぐらいのときに一度結婚して長男を産むが、武骨な夫と反りが合わずやがて離婚。ただし、離婚した夫との交流は10年ぐらい続いたといわれるが、藤原棟世という貴族と再婚して小馬命婦を産んでいる。

清少納言が皇后定子に仕えるようになったのは993年(正暦4年)の冬ごろといわれるから、清少納言は娘を夫の元に預けるかして宮仕えを始めたのだろうが、そのとき小馬命婦は2、3歳ぐらいにはなっていたのではないか。

定子の死により宮仕えをやめたのが1000年ごろで、「枕草子」を完成させたのが1008年ごろといわれているから、娘の小馬命婦は17、8歳になっていただろうか。清少納言道長に頼み込んで(あるいは清少納言の娘であるというので道長のほうから見込まれて)宮中に上がるようになったのかもしれない。

別の説では、清少納言自身にも道長から宮仕えしないかとの誘いがあったという。しかし、彼女はそうはせず、自分の娘に、定子の遺児たちのことをよろしくと思いを託したのではないだろうか。

彼女は一時期、夫の藤原棟世の任国摂津に下ったりしたのち、京の東山・鳥辺野の近くに住み、宮仕えした当時の同僚や和泉式部赤染衛門など彰子付きの女房とも消息を交わしながらも、紫式部とは直接の交流はなかったみたいで、一人寂しく晩年を送ったといわれている。

 

〈夫の死が書かせた「源氏物語」〉

一方、私こそ道長サマの大々ファンよ、というのが紫式部だ。

道長紫式部パトロンでもあるのだから、親密さは私が一番、といいたかったのではないか。

彼女は子どものころから才能にあふれ、弟が漢籍を覚えられないのにそばで聞いていただけですらすら読みあげたというので、父親が「お前が男でないのが私の運の悪さだ」と嘆いたほどという。

父親が出世できなかったこともあって彼女の結婚は遅れ、20台後半のころに又従兄妹(またいとこ)にあたる藤原宣孝と結婚。このとき宣孝40代後半で、彼にはほかに3人の妻がいて子どももいて、正妻でないため宣孝が彼女の屋敷を訪れる「通い婚」だった。

ところが、娘を産んで2年後、宣孝ははやりの病のため亡くなってしまう。

愛する夫を失って、悶々とする日々。一人娘を育てながら、夫のいない現実を忘れるため、彼女が書き始めたのが、命のはかなさ、「もののあはれ」を根幹にすえた「源氏物語」だった。つまり夫の死が紫式部の執筆を後押ししたのだ。

当時は紙が貴重だったため、紙を提供してくれる人がいればその都度書き、仲間うちで批評し合うなどして楽しんでいたというから、最初は同人誌のような楽しみ方だったのだろう。

やがて彼女が書く物語の評判は、ときの最大権力者、道長の耳に達するようになった。

すでに道隆の娘・定子は難産のため亡くなっていて、道長の娘の彰子が一条天皇の唯一の正室となっていた。

道長は彰子の女房として紫式部を呼び寄せた。1006年(寛弘2年)12月、もしくは1007年(寛弘3年)の12月といわれているが、1008年(寛弘5年)9月、彰子が皇子を出産する。のちの後一条天皇となる第二皇子敦成親王だ。

すると道長は、清少納言に懇願された第一皇子敦康親王への奉仕を、手のひらを返すようにして放棄。彰子に皇子誕生がなかった場合の保険でしかなかった敦康親王は出家させられ、享年20で亡くなったという。

清少納言はどんな思いでその現実を受け止めただろうか。

一方、宮中に上がった紫式部は宮仕えをしながら、パトロン道長のバックアップを受けて書き続け、54帖からなる「源氏物語」を完成させた。

 

2024年にNHKで放送される大河ドラマは、紫式部の人生を描く「光る君へ」と発表されたが、ドラマの中で紫式部道長は、ときに惹かれ、ときに離れ、陰に陽に強く影響し合うソウルメイトとして描かれるという。紫式部道長とは子どものころからの幼なじみで、互いに惹かれ合うも身分差に阻まれて別離。やがて結婚し、子どもを産んだのちに夫とは死別し、道長と再会・・・という設定だそうだ。

紫式部役は吉高由里子らしいが、道長や、亡くなった夫の宣孝役は誰がやるんだろう?

そして、清少納言はどんな描かれ方をするのだろうか?