善福寺公園めぐり

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国立劇場45周年 開幕驚奇復讐譚

国立劇場開場45周年記念の歌舞伎公演が大劇場で行われていて(10月から来年4まで「歌舞伎を彩る作者たち」と銘打って6シリーズ上演)、その皮切りとなる通し狂言「開幕驚奇復讐譚(かいまくきょうき あだうちものがたり)」を観る。

「開幕驚奇」は「開けてビックリ」の意味だそうで、出演が菊五郎菊之助親子、アッと驚く趣向もあるというので出かけていく。
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会場には昔の歌舞伎のポスターが飾られていて、最初のは英語のポスターだった。
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感想を先に言ってしまえば、おもしろかった。

原作は江戸後期の戯作者・曲亭馬琴の「開巻驚奇侠客伝(かいかんきょうき きょうかくでん)」という小説。馬琴といえば「南総里見八犬伝」「椿説弓張月」などが有名だが、今回のは晩年の作品で、「八犬伝」と同じに長い長い長編小説。

天保3年(1832)に刊行が始まり、年に1冊のペースで発行されて好評を博したが、天保6年、出版元と不仲になって途中で筆を折り、結局再開することなく、馬琴は嘉永元年に亡くなってしまう。
これを残念に思った国学者の萩原広道が、巧みに馬琴の文体を模して続きを書くが、これも完結しないまま終わってしまう。

慶応元年(1865)5月、江戸市村座で黙阿弥の脚色で原作の一部分が上演されたが、再演はされず、異なる脚色で明治7年(1874)に大阪で上演されるが、それ以降の上演記録はない。したがって137年ぶりの上演という。
しかも、今回、黙阿彌の脚本は一部しか使っていなくて、ほとんど馬琴の小説をもとに脚本を書いたので、国立劇場文芸課の手になるまったくの新作だという。

物語はというと──。

室町初期、3代将軍足利義満は対立していた南北朝を合体させる一方、政治的野望の実現のため南朝方の新田義貞楠木正成(芝居では楠正成)の一族を滅亡に追い込む。両家の子孫、新田小六(松緑)と楠姑摩姫(菊之助)は、吉野山の仙女、九六媛(菊五郎)のパワーを得て、南朝再興と足利将軍家への復讐を誓う。

一方、小六が父の敵、藤白安同(権十郎)を討った直後、藤白の妻、長総(時蔵)は家来の褄笠小夜二郎(菊之助)と出奔。その旅先で、2人は盗賊の木綿張荷二郎(菊五郎)の餌食となってしまう。ところが、小夜二郎は荷二郎に殺害されるが、長総は自ら進んで荷二郎の女房になる。この出来事が小六や楠家の人物を巻き込んで、思いも寄らない展開を引き起こす。
果してその結末は・・・。そして、小六と姑摩姫の復讐の顛末は・・・。

ちなみに原作では題名が「侠客伝」となっていて、「侠客」というと今日では博徒という意味でとらえられているが、本来は弱きを助け強きをくじく「義侠」の精神を持つ者を「侠客」といっていて、滅亡した南朝を再興するために武門の権力悪を懲らしめる痛快な人物、いわば反体制的ヒーローを指している。

馬琴の長い長い話をどう3時間余りにまとめるのかと思っていたら、伏線を示す「発端」の場面がコンパクトにまとまっていて、なるほど現代人的発想かな、と思った。
真っ暗な中、幕が開くと舞台は依然真っ暗なまま。闇の中からライトが観客を照らし、やがて金閣寺が浮かび上がってくる。足利義満田之助)と管領畠山満家(彦三郎)がセリ上がってきて、義満はいずれ帝位も奪って日本を支配する野望を明かし、邪魔をする南朝の遺臣・新田、楠の残党を滅亡させるように命じる。
ふたたび舞台が真っ暗になると、闇の中に白い顔がポッカリと2つ浮かぶ。このあたりはいかにも新しい演出。1つは相模の豪族・藤白安同(権十郎)、もう1つは新田義貞の子孫・貞方(松緑)で、貞方は藤白に殺されて新田家の家宝・系図の一巻を奪われる。これを顔の表現だけでやるのだが、物語がここからはじまる。

菊五郎は吉野の山奥に隠れ棲む仙女、九六媛(くろひめ)、商家の主といいながら実は盗賊の木綿張荷二郎、最後にちょこっとだけ出てくる管領斯波義将の3役を演じているが、さすがに見事な演技。
ことに盗賊の木綿張荷二郎が、実は荷二郎というのは仮の名で、本当は南朝方の楠家の家来であり、実の息子と対面するのだが、このときの菊五郎の演技が泣かせる。セリフひとつで観客を泣かせるとは、さすが人間国宝

おもしろかったのはセガ菊之助の姑摩姫に術を授ける場面。姑摩姫は足利将軍家に滅ぼされた楠正元の遺娘で、父の仇を討つために九六媛に弟子入りして剣侠の術を会得するために修行している最中。
この場面、舞台装置も現代風で、舞台のうえには四角の柱が何本か突き出ているのみ。セリ上がってくる2本の柱のうえに九六媛が乗っていて、ナント、レディー・ガガ風の真っ白の衣裳。別の柱のうえに乗ってセリ上がってくるのは姑摩姫で、こちらは紅色。

幕切れは2人の宙乗りで、姑摩姫は本花道の上空を、九六媛は上手よりの仮花道の上を飛んで行くのだが、ここでもナント、九六媛は「もののけ姫」の白狼そっくりの「大口真神」(要するにオオカミの神さま)に乗っていて、空を飛びながら白狼は足を動かしたり、目が赤く光ったりする。
ただし、菊五郎はただ乗っているだけなのでラクチン。

大変なのは菊之助のほうで、宙を飛びながらクルクルと回転したり、水平飛行したり、大熱演だった。これは若くなきゃできない。

その菊之助が一段の進歩。見始めたときは「へたくそだな」と思ったが、今はうまさが目立ってきた。やはり歌舞伎(だけじゃないだろうが)は年月が大事なんだな。
それにあの美貌だから、立役もいいけど、まだまだ女形をやってほしい。

今回は若侍の褄笠小夜二郎と姑摩姫の2役だったが、小夜二郎が2人の盗賊になぶり殺しにされるシーンでは、哀れさがことに印象に残ったし、金閣寺屋根上での立ち回りでの姑摩姫の見えがなんともなまめかしい。最後に姑摩姫が傷を負って瀕死の状態になったときの美しさも際立っていた。

女形時蔵は、正月公演のときの渡り巫女の茨木婆もおもしろかったが、今回も出色の演技。というより台本がそうなのだが、始め殿さまの奥方だったのが、若侍(褄笠小夜二郎)と手に手を取って駆け落ちし、小夜二郎が盗賊に殺されると今度はその親分の木綿張荷二郎の女房になり、やがて荷二郎をうとまくしく思って殺そうとまでするが、結局は逆に殺されてしまう、というトンデモナイ役柄。(こんな人、ホントにいるのか?)
それを違和感なく演じているのだから、悪女役が得意なのだろう。

ただし、最後に殺されるシーンがあまりにあっけない(荷二郎に刺されてそのまま退場)。どうせなら、実はこの奥方も南朝方と浅からぬ縁があってウンヌンとなれば、泣かせる話になったと思うが(文楽だったらゼッタイそうなっていた)、そうなると実は実はで余計にややこしくなるから、よしとするか。

新作であるなら、もうちょっと新作ぽくてもよかった。
本来、歌舞伎とは現代劇である。江戸時代の人が江戸時代を描いたのだから当然だ。もちろん、南北朝の時代を描いた作品なら当時の人にとっても時代劇だったかもしれないが、現代劇の延長ととらえていただろう。
それなら、現代に歌舞伎を新作として描くなら、せめて現代的なテーマ性があってもいいのではないか。
はじめに述べたように、「侠客」とは権力悪を懲らしめる反体制的ヒーローのことである。その意味合いをもっと前面に押し出せば新作としてのおもしろさが浮きでたと思うのだが。
その意味で、「侠客伝」を「復讐譚」にしてしまったのはどうかなと思う。「国立」劇場だからしょうがないか。

しかし、脚本を書いた国立劇場文芸課の手柄を1つ(あるいは演出の手柄かもしれないが)。

この物語の本当の主役は、南朝方で足利によって殺された新田義貞の末裔、貞方の息子である小六と、楠正成の末裔、正元の娘である姑摩姫という若い男女。

となれば当然、物語はロマンスの香りを秘めていて、原作では2人の出会いがひとつの焦点となっている。なのに「君の名は」の春樹と真知子みたいになかなか出会わない。いや、春樹と真知子ば前に一度会ってるけど、小六と姑摩姫は最初から出会ってなくて、両人の出会いと結びつきがこの小説のヤマ場だったという。

ところが、連載が第40回に至っても両人は出会わず、そのまま馬琴は死んでしまい、2人のロマンスは実現しないままとなってしまった。
当時少年だった坪内逍遥はこの小説の大ファンで、ロマンスの行方が永遠のナゾになってしまったのをとても悔やんでいたとか。

で、今回の芝居で、最後の最後のところで小六と姑摩姫はようやく出会う。
馬琴が筆を折ってから実に176年ぶりの出会いということになるが、幕切れのところで菊五郎管領斯波義将役で、時蔵は4代将軍足利義持役で顔を出し、一座の華が勢ぞろいして見えを切るところで、立ち姿の小六に姑摩姫が近づいて膝をつき、そっと手を添えたのである。
こうして2人のロマンスは、100年有余の時をへて、成就したのである。

[観劇データ]
2011年10月20日(木)
国立劇場開場45周年記念 10月歌舞伎公演
開幕驚奇復讐譚
1階5列27番