天橋立から車で30分ほどで伊根の舟屋へ。
舟屋とは、舟を格納する建物、つまり舟のガレージのことであり、2階建てで、2階部分は納屋とか住居となっている。
京都府与謝郡伊根町の伊根湾(伊根浦)沿いには、海面スレスレに舟屋が建ち並んでいて、かつてはもっと栄えていただろうが、今も海岸に沿って230軒ほどが軒を連ねている。
漁業に舟が使用されるとともに建てられるようになったといわれる。
昔は舟は木製だった。水に浮かべたままでは腐食する恐れがあったため、陸にあげて腐食を防ぐのが目的だったのだろう。また、舟屋に風を入れるため当初、壁はなく、ワラや古網を吊るしたワラ葺平屋建てだったが、江戸中期に入って半2階となり、明治中期に瓦葺のものが多くなったという。
昭和初期には大部分が2階建てとなり、いつでも舟が出せるように若者が寝泊りして若者同士が交流する場ともなり「若衆宿」と呼ばれた舟屋もあったようだ。
本来、舟屋は作業場であり、母屋は山側に建てられていた。
先祖代々受け継がれた財産である舟屋のある街並みを保存していこうと保存会が設置され、2005年(平成17年)、漁村集落として初の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。
着いた早々見た舟屋の風景。
ゴールデンウィークのころは観光客で混雑していただろうが、平日は実にのどかだ。
今夜泊まる宿にチェックイン。
宿は、海に面した舟屋を改築してつくられた「舟屋の宿 風雅」。
現在、伊根町にある舟屋のうち約20軒が宿として活用されていて、そのうちの1つ。
1日1組限定で舟屋が丸ごと借りられ、しかも温泉つき。
1階がリビングと露天風呂、2階がベッドルームとなっていて、1階のリビングは大きな窓から伊根湾が見える開放的な空間。かつては漁師たちが船を収納する“船のガレージ”として使っていた場所だ。
舟形の露天風呂は海のすぐそばにあり、遮るもののない海と空をながめながらの入浴が楽しめる。
お湯は奥伊根温泉の天然温泉で、つるつる・すべすべの肌あたりだとか。
たしかに温泉につかると穏やかな波の音と爽やかな潮風を感じながら、何時間でも入ったままでいられるほど、のんびり・ゆったりできた。
2階の大きな窓からも伊根湾と入り江の奥に舟屋が並ぶ様子を見ることができ、満足度120%!
荷物を置いて、舟屋の景色をながめながら周辺を散策。
短冊形に整然と並ぶ舟屋の街並み。
海に面した舟屋は屋根の切り妻側を海と道路に向けた妻入りで、道路を隔てた奥にある母屋は軒を道に向けた平入りになっている。
切妻屋根において、屋根が八の字のように見える面(妻側)に入り口を設置するのが「妻入り」であり、軒先側にある平側に入り口を設置するのが「平入り」だ。
妻入りだと、間口全体を開放して舟が入りやすい構造になるし、突然の雨風にもしっかりと守られる。
今は土台はコンクリート製が多いようだが、かつてはすべて木でつくられていただろう。太い椎や松材が構造材として用いられたという。
江戸時代の舟屋の場合、1階は海側に緩く傾斜していて、舟を出し入れしやすいように海水を中まで引き込む構造になっていたという。
海に迫り出して建てられた舟屋はまるで高床式の海上住居のようだ。
マンホールにも舟屋をデザイン。
浮き玉の上でカモメが休憩中。
それにしてもなぜ、伊根では海面スレスレに建つ舟屋がこれほどまでに発達したのだろうか?
その理由の1つは、日本海特有のものがあり、それは潮の干満差が約50㎝と年間を通じて潮位の変化が少ないがゆえだろう。
そもそも日本海側の人には潮干狩りをする習慣がないという。
なぜなら、東京湾など太平洋側だと干潮のときと満潮のときの潮位差はおおむね1・5m前後あり、干潮になるば潮が引いて遠浅の海があらわれ、潮干狩りに絶好となる。
ところが、伊根に限らず日本海側では潮位差が50㎝ぐらいしかないとなると、遠浅の海をのぞめるべくもなく、したがって潮干狩りもできない。
だが、そのおかげで、潮位差が1・5mもあると海面スレスレのところに建てた建物は満潮時には海中に没してしまうところを、潮位差50㎝ぐらいならその心配はいらない。
太平洋側も日本海側も、海はつながっているのになぜそんなに違うかといえば、月や太陽の重力の影響で海面が定期的に上下する潮汐は、1日に2回の干満を繰り返すが、日本海は太平洋に比べて面積が小さいのと、対馬海峡や関門海峡、津軽海峡などがあって日本海は入り口が狭くなっている。海水の出入りが限られるため、太平洋が満潮になって潮位が上がって日本海側にも海水が流れ込んでくるとき、入り口が狭いと急激に流れ込むことができず、潮位が上がりきらないうちにもう下がり始めて、これを繰り返すので干満の差はおのずと小さくなってしまうのだ。
また、日本海というと荒波を連想するが、伊根の湾は日本海では珍しく南向きに開いていて荒波が入り込みにくく、湾と外洋との間に青島という天然の防波堤があるのでなおさらのこと、1年を通じて波が穏やかとなる。
こうした自然の条件が重なり合って、ほかにはない独自の舟屋文化が育まれていったのだろう。
建物に大小の差がなく、同じような規模の短冊形の舟屋が等間隔に並んでいるのも気になるところだ。
舟屋群を上空から見たところ(観光向けのパンフレットより)。
漁村の例として、漁業権を一手に握った網元が、いくつもの漁船や魚の網を所有し、漁師や漁夫を雇って魚を獲らせる話も聞くが、伊根では漁師はみんな対等なのだろうか、海辺を住民みんなで分かち合うようにして舟屋がつくられている感じがする。
伊根の歴史をひもとくと、古くは室町時代からブリ刺網漁が行われていたが、江戸時代ににはクジラ、マグロ、カツオ、ブリなどの漁が盛んに行われるようになっているという。
好漁場に恵まれていたこともあり、漁場をめぐる争いも絶えなかったといわれる。だが、そのうち、湾に迷い込んできたクジラを捕まえる捕鯨が盛んになり、一致団結した漁船団での共同漁撈の必要性が生じ、それによる収穫を共同分配する必要が生じ、その方法として「株組織」がつくられたという。
大正時代のころの捕鯨の様子。
明治のころの町並みが紹介されていた。
株を持つ者は百姓、持たないものは水呑みと呼ばれ、格差も生じただろうが、延宝9年(1681年)の記録によれば、総戸数57戸のある村では、株を保有しない者は3戸と少数で、大多数の村民は株を保有していた。このことからも、株組織は一部の特権階級のための組織ではなく、民衆のための組織であったと考えられるという。
均等な短冊地割によって建てられた舟屋は、共同漁撈の必要からつくられた株制度にもとづくもので、株を持つ者が漁業権を取得し、平等にするため同じような大きさの舟屋をつくったのかもしれない。
京都といえば、都で力を持つようになった商工業者たち地域住民が町組織をつくり、自治的な生活を営んだことが知られ、そうした人々を「町衆」と呼んでいたが、遠く離れた海辺の村でも、町衆ならぬ「村衆」的な動きが活発だったのだろうか。
夜は町内にある「鮨いちい」でお酒を飲みながらの食事。
コース料理で、まずはつきだし。
お造り(タコ、ヒラマサ、ハモ、アジ)
ハモのシャブシャブ鍋。
にぎり鮨を何種類か。
剣先イカ、ホウボウ、ヒラマサ、タイの昆布締め、カワハギ、サバなど。
追加で、これも伊根産の岩牡蠣。
酒は、やはり地元の向井酒造のお酒。
「京の春」「豊漁」「竹の露」を順にいただく。
伊根湾の夕暮れの風景。
かくて1日目は終わるが、翌日は丹後半島をもう少しまわってみることにして、浦島伝説発祥の神社として知られる浦嶋神社(宇良神社)、秦の始皇帝に命じられて不老長寿の薬草を探しに旅に出た除福が漂着したという新井崎と、その除福を祭る新井崎神社、さらには棚田があるというので丹後半島の中心付近に位置する上世屋地区に行ったところ、そこには桃源郷のような世界が広がっていたのだった。
(下に続く)