善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

海の京都 天橋立・伊根の旅 上

ゴールデンウィークが終わった翌日の7日から8日にかけて、京都・丹後半島にある天橋立(あまのはしだて)と伊根(いね)の舟屋を旅してきた。

前々から、ぜひとも伊根の舟屋に泊まりたいと思っていて、だったらその手前にある天橋立にも行こうと計画。

朝から好天に恵まれ、6時24分発の新幹線のぞみで京都へ。京都着は8時33分。

新幹線の車中で食べたお弁当。

 

駅からレンタカーでまずは天橋立へ。

高速道路を利用して2時間ほどで天橋立に到着。

 

日本海若狭湾西端に位置する京都府宮津市宮津湾と内海の阿蘇海を南北に隔てる全長3・6㎞の湾口砂州安芸の宮島陸奥の松島と並ぶ日本三景1つ。

北の丹後半島の河川から流れ出た砂礫と、東からの河川の流れによる砂礫とが、海流によってぶつかり合い、堆積して南北に細長く伸びた砂州となった。

天橋立の名前の由来は、「丹後国風土記」によれば、もともとはイザナギノミコトがつくった天界と下界を結ぶハシゴが語源という。ハシゴ=橋で天橋立。ところが、せっかく立てかけておいたハシゴが寝ているうちに倒れてしまい、今の姿になってしまったのだとか。

天橋立はすでに平安時代から歌に詠まれていて、有名なのが「百人一首」の次の歌。

 

大江山いく野の道の遠ければまだふみもみず天橋立 小式部内侍

 

小式部内侍(こしきぶのないし)は和泉式部の娘で、この歌は10代のころの作といわれる。

母親の和泉式部は夫の丹後守藤原保昌とともに天橋立がある府中に住んでいて、かの地は遠くてまだ手紙も届いていない、と母を思う娘の姿が目に浮かぶ。

今は高速道路を走れば都から2時間ぐらいで行ける天橋立も、平安のころは何日もかけてようやくたどり着いたのだろう。

 

高い位置から見ようと、海抜130mの山頂にある南側の天橋立ビューランドへ。

リフトで片道6分ほど。

ここから見ると、天に舞う龍のように見えることから「飛龍観」と呼ばれる。

ただし、そう呼ばれるのは“股のぞき”をして逆さに見た天橋立

なので、“股のぞき”するとこう見える。

ちなみに“股のぞき”が最初に行われたのは北から天橋立を見る傘松公園というところで、明治時代にこの地に展望所を設置した人が最初に行って広めたのだとか。こちらからの天橋立は昇る龍に見えるというので昇龍観。

着物姿の女性は“股のぞき”ができないので袖の下から見る“袖のぞき”もあったんだとか。

 

ところで、今回の旅の一番の目的は丹後半島の北にある伊根の舟屋で、舟屋とは海に面して海面すれすれに立ち並ぶ舟の格納庫と住居が1つになった建物のことであり、伊根の舟屋は全国的にも例を見ないほど見事な建物群を構成していて、国が選定した重要伝統的建造物保存地区(略してジューデンケン、重伝建)に指定されている。

伊根の舟屋ほどの規模ではないけれど、同じような舟屋の集落が天橋立の近くにもあり、天橋立ビューランドからも見える、というので探してみる。

望遠レンズでのぞくと、たしかにそれらしいのが見えるではないか。

あとで近くまで行ってみることにする。

 

その前に、天橋立ビューランドからふもとに下りて、ちとせ茶屋というそば屋さんで昼食。

伊根は漁業だけでなく山間部の筒川というところではそばの栽培も盛んで、特産品として筒川そばが有名。

天橋立のそば屋さんでも、食べたのは筒川そば。

 

天橋立のほど近く、日本三文殊のひとつ智恩寺へ。

国の重要文化財、多宝塔。

文殊堂に掲げられていた地獄絵図。

 

天橋立は白い砂浜に青々とした松が並ぶ「白砂青松」の景観で知られる。それならと、南から北へ、天橋立を歩いて渡る。

約3・6㎞の砂州に約6700本の松が生い茂っている。

 

見慣れないハトほどの大きさの青い鳥を発見。

どうやらイソヒヨドリのようだ。

メスは地味だが、オスは頭から胸、背、腰までが青藍色で、おなかは赤褐色。翼と尾は黒っぽい。

海岸の磯でみることが多いのでこの名があるのだろう。

 

一本の松が三又に分かれていることから「三人寄れば文殊の智恵」にちなんで「智恵の松」。

文殊の智恵の智恩寺にあやかった名前。

 

岩見重太郎試し切りの石。

剣豪として名高い岩見重太郎が天橋立で仇討ちをしたと伝えられていて、仇討ち前に試し切りをした石だとか。

 

蕪村の句碑。

はし立や松は月日のこぼれ種

 

対岸に舟屋が見える。

阿蘇海北岸中央の溝尻集落で、室町時代雪舟が描いた「天橋立図」(国宝)にも舟屋らしき情景が描かれている。

 

「一声塚」という芭蕉の句碑。

一声の江に横たふやほととぎす

 

実は芭蕉天橋立に行ったという記録がない。それなのになぜ芭蕉の句碑があるのか?

地元で俳句を楽しむ人々から、芭蕉の句がないのを残念に思って句碑を建てようと声があがり、1767年に智恩寺境内に句碑を建立。その後、天橋立の松並木に移設された。

句そのものは江戸の隅田川を詠んでいて、「江」とは隅田川のことらしい。

 

2本の木が寄り添うようにしている「夫婦松」。

「一本の幹から釣り合いのとれた二本が現れ、夫婦の如く仲良く寄り添う名松」と解説にある。

 

砂浜を這うようにハマナスが咲いていた。

天橋立は全国的にも知られるハマナスの群生地のひとつたとか。

 

天橋立砂州を渡り切ったところにあるのが籠神社(このじんじゃ)。

籠神社の正式名称は「丹後一宮 元伊勢 籠神社」。三重県にある伊勢神宮の元という意味だそうで、籠神社が建っている府中という地域は奈良時代から平安時代にかけて国府(地方行政府)があったところで、丹後国の中心地であり、籠神社は丹後国一の宮。なおかつ伊勢神宮の元宮、つまり“お伊勢さんのふるさと”だというのだ。

なぜ神社名が「籠神社」で、「籠(かご)」と書いて「この」と読ませるのか?

この神社の主祭神である彦火明命(ひこほあかりのみこと)が、竹で編んだ竹船の籠に乗り海神の宮に行ったという故事が由来になっているのだそうで、「命を籠(こ)める」という意味の「籠(こ)」に、助詞の「の」をつけて「籠(この)」と呼ぶようになったという。

 

社頭の狛犬鎌倉時代につくられ国の重要文化財

この狛犬はその昔、作者の魂が籠もり天橋立に暴れ出て通行人を驚かせていた。そこで仇討ちのために当地を訪れていた豪傑岩見重太郎が一夜待ち伏せ、剛刀で狛犬の脚に一太刀浴びせたところ、それ以来社頭に還り魔除けの狛犬として霊験あらたかになったという説話が残されている。
その刀傷が口を開けた阿形(あぎょう)の狛犬の右前脚に今も残っているというが、写真ではよくわからない。

 

遊覧船で阿蘇海を周遊。

カモメが寄ってきてエサをねだっていた。

 

船から溝尻集落に今も残る舟屋が見える。「溝尻の舟屋」とも「阿蘇の舟屋」ともいわれている。

陸に上がって「溝尻の舟屋」(阿蘇の舟屋)を訪ねる。

溝尻地区は内湾である阿蘇海漁業の拠点となっていて、かつては40軒ほどの舟屋群があったという。

たまたま外に出ていたお年寄りに聞くと、今は漁業をやる人も減って、現役の舟屋はほとんどなくなってしまったらしい。

籠神社から出土した文治4年(1188年)の銘がある経筒(重要文化財)には「与謝郡拝師郷(はやしごう)溝尻村」とその名が記されていて、阿蘇海ではかつてキンタルイワシ(金樽鰯/金太郎鰯)と呼ばれていたマイワシ漁が盛んで、江戸時代中期の俳人である蝶夢(ちょうむ)の『橋立秋の記』には「名月や飛び上がる魚も金太郎」とキンタルイワシを詠んだ句が載っているという。

現在では舟屋群は見る影もない。その理由のひとつは、天橋立砂州がだんだんと堆積して陸続きになってしまったことで、これにより潮通しが悪くなって内海(阿蘇海)が不漁になったり、船で外海への出入りもしづらくなったりしたことがいわれている。

それでも、最近、穏やかな内海ならではの漁村風景としての文化的価値が再認識され、「宮津天橋立の文化的景観」として国の重要文化的景観に選定され、保全する動きが始まっているという。

(以下、続く)