善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

海の京都 天橋立・伊根の旅 下

天橋立・伊根の旅2日目。

昔ながらの舟屋に1日1組限定で滞在できる温泉付きの宿「舟屋の宿 風雅」に泊まった翌朝。

朝食は、デリバリーサービスで届いた料理。

メニューはフレンチトースト、自家焼きパン、焼き菓子、卵料理、野菜サラダ、フルーツ、オレンジジュース。

温かくして宿まで運んでくれて、おいしくいただく。

 

朝の舟屋を見て回る。

「MARIN HIGH SCHOOL」と書かれた大型の船が出航していった。

宮津市にある京都府立海洋高校の実習船のようで、海洋実習の途中なのだろう。

朝は舟屋から出て行く舟はなかった。

小舟での漁は、もはやなくなったのだろうか。

海上タクシーで海からも舟屋を見学。

 

10時に宿をチェックアウトしたあと、丹後半島をもう少しまわってみることにする。

向かうのは浦島伝説発祥の神社として知られる浦嶋神社(宇良神社)、そして、秦の始皇帝に命じられて不老長寿の薬草を探しに旅に出た除福が漂着したという新井崎と、その除福を祭る新井崎神社、さらには、棚田があるというので丹後半島の中心付近に位置する上世屋地区に行く。ガイドブックにも載ってないようなところだが、そこには、桃源郷のような世界が広がっていた!

 

まずは10㎞ほど北にある浦嶋神社(宇良神社)に向かう。

助けた亀に連れられて龍宮城へ行くという浦島伝説発祥の神社として知られていて、ここには物語の様子を描いた600年前の絵巻物が大切に保管され、玉手箱もあるというので、事前に見学を予約しておいた。

約束の時刻に宝物資料室に入ると、すでに宮司さんが待っていて、壁に掛けられた「浦嶋明神縁起絵巻」の掛け軸を指し示しながら懇切丁寧に解説してくれた。

「昔々浦島は、助けた亀に連れられて龍宮城に来てみれば、絵にもかけない美しさ」と、童謡や昔話でお馴染みなのが浦島太郎の物語だ。

浦嶋伝説はほかにも各地に伝わっているが、その中でも伊根の地の伝承が発祥とされるのは、「古事記」や「日本書紀」「万葉集」にも登場し、特に8世紀ごろに編まれた「丹後国風土記」に載っている浦島伝承の記録が最古とされるからだ。

その「丹後国風土記」によれば、与謝の郡、日置の里筒川の村に、日下部首(くさかべのおびと)等の先祖で名を筒川の嶋子(しまこ)という人がいて、姿容秀美しく、風流なること類いなく、水の江の浦嶋子と呼ばれていたというが、この人が浦島太郎なのだという。

時代は雄略天皇22年(神代478年)のとき、雲龍山の麓、筒川庄水の江の里に住む浦嶋子(うらしまこ)は一人舟で釣りに出て、3日3晩の後に五色の亀を釣りあげる。

嶋子がうたた寝をしている間に亀は絶世の美女に変身し、誘われるままに常世へと連れていかれる。

美女の名は亀姫といって、嶋子は姫と結ばれ夢のような3年間を過ごすが、やがて望郷の念にかられて一人帰郷する。亀姫はその別れ際に、決して開けてはならないと注意して玉手箱を渡す。しかし、実際には嶋子が戻ったのは300年ののちのことで、すでに知る人もなく玉手箱を開けると、白髪の翁となった。

 

この話を耳にした淳和天皇(在位823~833年)はいたく感じ入り、嶋子を筒川大明神と名づけ、小野篁(おののたかむら、小野道風の祖父)を勅使として派遣。勅命により天長2年(825年)に創建されたのが浦嶋神社だという。

現在、人口に膾炙されているのは明治時代に巌谷小波がつくった浦島太郎の昔話で、助けた亀に連れられて龍宮城に行った話になっているが、もともとの浦嶋伝説は、亀が変身したお姫さまに連れられて常世の国に行く物語だった。

 

解説してくれた宮司さんによると、浦嶋伝説には、古代中国の神仙思想が根底に流れているという。

常世の国」とは海の彼方にある異界で、永遠不変の国のことであり、ユートピアだ。

そうした海の彼方の異界や山奥の異境にユートピアを見出し、神人や仙人に願いを託して不老不死を求めるのが神仙思想。亀姫は異界に住む海の神の使いであったのだろう。

中国の神仙思想が日本に伝わってきて浦嶋伝説が生れたとするなら、中国大陸と丹後半島との海を介した深いつながりを思わずにいられない。

 

宮司さんの話によれば、大陸との深いつながりがあるため、かつての丹後地域は政治・文化・産業が発達した地域だったという。

たしかに、今でこそ政治・文化・産業の中心地といえば東京をはじめとした太平洋側だが、古代において栄えたのは日本海を挟んで大陸に向いている日本海側であり、果てしない広さの海しかない太平洋側はむしろ最果ての貧しい地域だったのではないだろうか。

太平洋側より日本海側のほうが栄えていたのは古代だけでなく、江戸時代まではたしかにそうだったようで、何しろそのころの花形産業といえば米づくりの農業だ。太平洋側より日本海側の方が人口が多かったともいわれる。

外国との交易や人的交流が盛んだったのも日本海側であり、日本の表玄関の役割を果たしていた。

日本古代史が専門で京都府立大学教授だった歴史学者の門脇禎二氏は、古墳時代にはヤマト王権とも対等の独立国家が丹後半島に存在したとして「丹後王国論」を提唱した。

丹後半島には日本でも有数の巨大な前方後円墳がいくつもあり、その発掘調査の結果などから、古代に独立した勢力が存在していて、ヤマト王権と競い合っていたというのだ。

ただし、丹後王国は4世紀から5世紀にかけてが最盛期で、6世紀中ごろにはヤマト王権支配下に入っていったと推定されいるようだ。

丹後半島では製鉄遺跡も見つかっている。

「遠處遺跡製鉄工房跡」と呼ばれていて、古墳時代後期(6世紀)および奈良時代後期から平安時代前期(8~9世紀)にかけて営まれた製鉄遺跡という。

1988年~1992年にかけて行われた発掘調査で製鉄炉、鍛冶炉、木炭窯、建物跡などの鉄づくりに関わる多くの遺構が見つかっていて、特に古墳時代後期の製鉄炉や木炭窯が見つかったことから、わが国で鉄を原料から生産した最古級の製鉄遺跡のひとつとして評価されているという。

また、最も多くの遺構が見つかった奈良時代後期は原料(砂鉄)、製鉄、鍛錬、製品まで一貫した生産体制が構築されていたことがわかっており、古代の製鉄コンビナートといってもいいほど大規模なもので、古代丹後の進んだ技術を物語っているといわれる。

そういえば「丹後」という地名も、「丹」というのは赤色の顔料の辰砂(硫化水銀)、あるいはベンガラ(酸化鉄)を意味し、鉄や鉱物と関係がある。

岡山の吉備には、百済からタタラ製鉄の技術をもたらした「ウラ(温羅)」という人物の伝説があり、「ウラ」は朝鮮半島からやってきた製鉄民族ではないかといわれている。

伊根の浦嶋神社は、醍醐天皇の延長5年(927年)「延喜式神名帳」所載によると「宇良神社(うらのかむやしろ)」と記されており、「宇良」は「ウラ」と読む。

吉備の「ウラ」と伊根の「ウラ」、「鉄」でつながる何らかの関係があるのだろうか。

また、嶋子が祖先であると記された日下部氏は、古代において丹後半島の海岸部を治め、大きな勢力を持っていたと海人(かいじん)とされるが、海との関係だけではなく農業や養蚕、鉄などを扱うのに欠かせないさまざまな技術や文化を大陸と交流していた民と考えられているのだとか。

 

浦嶋神社のあとは、日本海をのぞむ場所に建つ新井崎神社へ。

徐福伝説が残る神社だ。

司馬遷がまとめた中国の歴史書史記」には、秦の始皇帝の命を受けた家来の徐福が、東方に不老長寿の霊薬があるというので3000人の若い男女や技術者を従え、財宝と五穀の種を持って船出したものの、その後、帰らぬ人となったとの記述がある。

徐福が向かった先は日本ではないかというので、日本各地に徐福が漂着したという伝説が残っていて、伊根の新井崎もそのひとつ。

徐福を祭神とした新井崎神社。

ハコ岩と呼ばれる徐福上陸の地。

ベニシジミが翅を休めていた。

 

新井崎神社から南下してふたたび伊根の舟屋へ。

舟屋が建ち並ぶ伊根湾を一望できる丘にある「道の駅 舟屋の里伊根」で昼食。

食べたのは地元の魚介がふんだんに入った海鮮丼。

見晴台からの眺め。

 

舟屋の内部見学ができるというので立ち寄る。

中から見た舟屋の様子。

午後の日差しを浴びた舟屋群の風景。

心癒される日本の原風景といっていい眺めだ。

 

舟屋とお別れして、上世屋の棚田へと向かう。

丹後半島の内陸に位置し、標高370mの世屋高原の中で世屋谷と呼ばれる地域の中心であった上世屋集落の田んぼ。

水を張ってはいたが,田植えはこれからのようだった。

さらに道をのぼると集落があるらしいので車を走らせる。

すると、そこにあったのはまるで桃源郷のような風景だった。

かつては茅葺き屋根の家が並んでいたのだろう、今は茅葺きは数少なくなっているが、それでも昔の里山の面影を色濃く残していて、絶景というほかない。

ガイドブックには上世屋の集落のことは何も書かれていなかったが、実はこの集落は日本の里100選に選ばれ、集落を含めた里山景観が京都府指定無形民俗文化財に選定されるなど、近年「かやぶきの里」として注目されているという。

この地域は冬は丹後半島有数の豪雪地帯であり、このため入母屋造りの家々は、合掌造りのように屋根の勾配が急な造りになっていて、岐阜の白川郷にも負けない美しい里山の風景を形づくっている。

さらに道をのぼっていくと、広く開けた見晴らしのいい場所があり、藤織り伝承交流館と世屋高原休憩所を兼ねた建物があった。

藤織りとは、その名の通りフジのツルからつくった糸を使った織物のこと。

フジのツルは太くて固くて、藤棚のフジは強靱な感じがするが、そこから糸を取るなんて、先人の知恵に驚かされるが、万葉の時代からの伝統的な織物だという。

上世屋でつくられる藤布は山着や漉し布などに使われていて、地元の中学校の校旗も藤織りでつくられていた。

飲むと冷たくておいしい湧き水もあった。

広場の隅っこに二宮金次郎の石像を発見。

今は草ボウボウの広い場所にはかつて学校があり、子どもたちは里山を一望できるこの場所で学び、遊んでいたのだった。

金次郎の背中越しに広がる上世屋の風景。

子どもたちが明るくワイワイいってるあの時代に戻れたら・・・、そう思った。

地元の子どもたちがつくったであろう「飛び出し注意」の看板がカワイかった。

 

京都からの帰りの新幹線で食べた駅弁。



かくて2日間の旅は終わる。